午後三時、結城七海が駅に着くと、待ち合わせ相手の奥菜裕美は既に改札前に佇んでいた。
両手で抱え込むように持っているホット紅茶のペットボトルを美味しそうに飲んでいる。ちなみに裕美は珈琲が苦手で、珈琲を飲むくらいならソースを飲むと断言しているくらいである。
裕美は女性にしては背が高く、柔らかそうな栗色の髪がゆったりとしたウェーブを描いている。黒のスリムジーンズをブーツに折り込み、ピンクのタートルニットを白いツイードコートに包んでいる。
同性の七海から見ても可愛らしいと思える女子大生だ。一方七海は、大学生というより高校生くらいに見られる事が多い。というのは女性としてもやや低い身長や、
化粧気のない童顔の顔に短くまとめた硬めの髪、慎ましくスレンダな胸などが原因だ。
「ゆーちゃん、ごめん! 待たせちゃったかな?」
七海が拝むように謝ると、
「んーん。雪が降りそうだから早めに家を出ちゃっただけだから大丈夫。ななみーが謝る事じゃないよ」
と、笑って許してくれる。
「ホントは一時過ぎには着いてたんだけど、あちこち見てたらこんな時間になっちゃった」
「ななみーらしいね」
ちなみに「ななみー」というのが七海の愛称だ……というのは別段説明する事でもなかったかもしれない。
「それにしてもとうとう降って来ちゃったな。ヒロム先輩はどうしたの?」
裕美は傍らの旅行バッグを抱えなおしながら聞く。
「午前中の内にこっちに来てるって話だよ。ゆーちゃん、荷物重そうだけど大丈夫?」
「なんたって乙女ですからねー。イロイロと入り用になるってものよ。そういうななみーは荷物どしたの?」
ぴこぴこ元気に動き回る七海はジーンズにダウンジャケット、ニットの帽子に手袋と高校生どころか中学生にすら思える出で立ちで、荷物らしきものはどこにもない。
「んむー、なんかどっかで酷いこと言われてる気がするけども。あたしは家から荷物送っちゃった。重いんだもん」
「たかだか二泊の旅行でそんなに大荷物って……はっ! さてはお菓子ねお菓子!」
「あたしがお菓子を手元から離すとでも?」
「それもそっか。じゃあ雪に埋もれて荷物ごと坂を転がり落ちるフラグ!」
「だーれがそんな安易な死亡フラグを立てますかっての」
「で、手元から離さないはずのお菓子は?」
「……誰かに盗られたりしないように安全な場所にまとめて保管しております」
「食べたでしょ」
「えへへ。でもだいじょーぶ。とっておきはこのポーチに入ってるから!」
と、七海はジャケットに隠れているウェストポーチをぱんぱん叩く。お菓子が増えるとでも思っているのかもしれない。
「さて、ゆーちゃんも無事到着したことだし、バスの時間は……と」
七海がポケットを探るとお菓子の包み紙と、小さく丸まった銀紙と、チョコレートにまみれたティッシュと、短く折りたたまれた細い紐と、薄汚れた紙切れがバラバラと出てくる。
「また失礼な事いわれた気がする……。じゃーん! ファックスしてもらった目的地へのマップとバスの時刻表だよー」
「バスの本数はそんなに多くないのよね?」
「そうだね。でも最終バスは五時って書いてあるからまだまだ余裕だよ。待ってる間に大豚ダブル全マシマシだって食べれちゃうかな」
「こんなトコにラーメン次郎はないと思う。それにそんなメニュ完食できる人、ななみーくらいしか知らないし」
ネタでしか語られないような特盛りトッピングメニュだが、七海は月に二回は食べている。この食欲を持ってしても身長が伸びないのはある意味凄い事なのではないだろうか。
それとも全く体重が増えないのを褒めるべきなのだろうか。せめて脂肪分だけでも胸元に集まってくれれば……と思う七海である。
「じゃあとりあえずバス停に行ってみようか。バスの時間が結構近いし」
「ななみーがコンビニでお菓子選ぶのにこんなに時間掛けなければもっと余裕があったと思うけどね」
バス停は駅のすぐ横にあった。都心からかなり離れているのでかなり古いのかな、と思っていた七海の予想に反してかなり新しく屋根付き暖房付きの待合室だったりする。
「えっと、五時まではあと十五分ってところ……あれ?」
「どしたの、ななみー」
「バスが……バスが……ないの!」
「ちょ、どういう事よ。見せてみなさい」
裕美が時刻表を見ると、最終バスが十五時になっていた。どうやら二時間に一本程度出ているようだったが、当然ながら今日の最終はとっくになくなっている。
「ななみー?」
「ゆ、ゆーちゃん……」
七海は裕美の背後に恐ろしいモノをみた。ほの暗い水の底からやってきたような黒い影が……ああ、窓に!窓に!
「ラヴクラフトごっごしてる場合じゃないでしょー! ちょっとファックス見せてみて」
七海は渋々泣く泣くポケットから厳重に折りたたまれたペラ紙を裕美に手渡す。そのファックスにある時刻表の最終便のところには確かに五時と書いて──
「これってかすれてるけど五時じゃなくて十五時なんぢゃないかなーって」
「あっはっは。そーいやその一本前の時間が十三時になってたね」
「なってたねーじゃないでしょ。どうすんのよ、せっかくの温泉スキー付きペンションなのにー!」
「まぁまぁゆーちゃん落ち着いて。ほら、こっちの地図みたら鍾乳洞探索コースからちょっと歩けば行けるらしいよ?」
「どれどれ。鍾乳洞を抜けた先からショートカットできるのね。夏場で徒歩三十分ならこの時期でも小一時間くらいで行けそうね」
「……といってはみたものの、すっかり道に迷っちゃったね」
「そんな事より、挫いた足は大丈夫? ゆーちゃんは相変わらずドジなんだから。このドジッ娘めー」
結局二人は鍾乳洞見学を兼ねて歩いて目的地へ行くことにした。が、途中で裕美が足を滑らせて転んでしまい、鍾乳洞の中途で休憩することになってしまった。
その上自分たちが出口へ向かってるのか入口に戻っているのかまで解らなくなってしまった。
「ななみーに言われるのはちょっと辛いよ?」
「とりあえずちょっと休憩しよう。こんな事もあろうかと、固形燃料と耐熱コップを持ってきたから……小瓶のワインにさらさらっと入れて、はい、ホットパンチだよヤン提督!」
「わあ、スルーありがと、ユリアン。って『こんな事もあろうかと』ってどういうことなのかな? そして咄嗟に割に随分凝ったドリンク作るのね。ワインとかスライスしたリンゴとか準備良すぎじゃない?」
受け取ったカップを包み込むようにしてゆっくり口に含む。ワインの渋みとリンゴの酸味がとても口当たりがよくてすっと喉に入ってくる。裕美はアルコールには強くないが、これならいくらでも飲めてしまいそうだ。
「えへへ。雪道歩くからあらかじめ作って水筒に入れておいたのさっ。後は温めるだけだしね。ふわー、寒空で飲むホットドリンクは最高だよね」
「まあ否定はしないけど……。とりあえず少し休んでおかないと」
「じゃあその間にちょっとこの先の様子を見てくるよ。なんだか風の音がするから吹雪いてきてるかもしれないしね」
「あんまり遠くへ行かないでよ?」
「はいはい、ゆーちゃんはホント甘えっ子なんだから」
一人になった七海がしばらく先へ進むと意外にもあっさりと出口に辿り着いた。つい小一時間前は晴天だったのに、今は曇天になっていて風が頬に痛い。
ちらほらとみぞれ交じりの雪が視界をぼんやりとしたものに変えていた。
「うー、さぶさぶ。こりゃ早く到着しないとマジでやばいねー。ま、今のところは順調順調っと」
七海は白い息をたなびかせつつ背伸びをする。ちなみに背伸びする時につま先立ちになる癖があるのは、やっぱりちょっとでも背を高く見せたいという乙女心なのかもしれない。
そして思いっきり胸を反らせるのは
「なんだか心がちくちく痛むから戻る……」
七海が洞窟内をふらふら戻っていると──戻って──戻って、あれ?
「うう、どこも見覚えのある風景ばっかでよくわかんない……。こんな事ならポテチを道標にすれば良かったよ」
半泣きになりながらふらふら歩いていると、ようやく黒っぽいジャケットの人影が見えてきた。
「わー! ゆーちゃんゆーちゃん! やっと見つけたよー」
「おかえり。外は寒かったんじゃない? 鼻が真っ赤になってるし。はい」
七海は鼻をぐずぐずさせながらカップを傾けると、琥珀色の液体が胃の腑を暖める。
「ほふー。ひと心地ついたよ。珈琲はいいねえ。リリンが生み出した文化の極みだよ」
「ところで、外はどうだったの?」
「んー、そろそろ出発しないと本格的に吹雪いてきて閉じこめられるかも」
「そりゃマズイね。今晩はかなり冷え込むらしいからそんな事になったら確実に凍死しちゃうよ」
「うん、それは困ったね。えへへ」
「よし、じゃあ早速準備しないとね」
「ゆーちゃん、はい」
七海はそれまで座っていたビニールシートを折り畳み、赤いナップザックにしまう。それを手渡すと先導するように歩き出す。
「ありゃ、さっきより吹雪いてきてるよ。すっかり新雪が積もってるなあ」
「うん、視界も悪くなってきたしさっさと行っちゃおうか」
さくり。
大きい足跡が雪原にひとつ。
さくりさくり。
小さい足跡がそれをそっと追っていく。
二人は無言のまま吹雪を掻き分け突き進む。
七海はちゃっかり背中に隠れて風除けにしてるけど──
歩くこと三十分。
漸く眼前に朧気ながらも目的地が見えてきた。玄関先は流石に除雪されていたが、この吹雪でうっすらと雪が積もり始めている。
「へくち」
七海は安堵からくしゃみをすると、目の前の黒いダウンジャケットを掻き分けてするりと抱きつく。
「うは。冷たいよななみー」
「あー、やっぱゆーちゃんの胸にうずまるのは気持ちいいにょー」
「ほら、宿の人が来るから」
その言葉を待っていたかのように扉が中から開けられ、そこには初老の男性が立っていた。
「じゃあこちらの宿帳にお名前をお願いします」
白くなった口ひげにパイプを咥えた宿の主人は雪山によく似合う。そのインパクトのためだけに脱色しているというのは五年前に(離婚されて)居なくなった元妻しか知らない秘密なのだが、この際はどうでも良い。
「それにしても今日は寒いですねー」
七海はかじかんだ手をこすり合わせて手を温める。
「はい、先日辺りからかなり冷え込んで来たそうですよ。そういえば、最終バスで来たにしては随分遅かったですが……」
「ちょっと来る途中の鍾乳洞を見学してきたんですよ」
「え、あそこは冬場は立ち入り禁止区域ですよ!? 確か送ったファックスにも書いてあったと思うのですが……。出入り口の洞穴が地面より低い場所にあるのですが、
この時期は吹雪くと洞穴の入口が雪で塞がってしまうんです。出入り口がロープで封鎖されてませんでしたか?」
「んー? あたしが行った時には何も無かったと思いますよ。っと、名前書けたー!」
結城七海──
「はい、ゆーちゃん」
「ん、ありがと。それにしてもななみーはドジだよね。うっかり違う地図を持って来ちゃったから途中まで迎えに来て、だなんてさ。しかもそこが立ち入り禁止区域だなんて……と、宿帳書けました」
広務祐介──
- 了 -
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