魂魄堂 書庫

- 環 -


 人は環のようなものだと思わないかい───?

 ふとそんな言葉を思い出し我に返る。はて、僕は一体何をしていたんだろうか。
 ぼんやりと頭を巡らすと、泥臭さが鼻につく。どこか見知らぬ路地裏に、べったり と座り込んでいる自分を知覚する。
 なんだ、酒に酔ったのか?
 自嘲しようとする自分が、酒なんて呑めない事を思い出し愕然とする。それでも もしかしたら無理にでも呑まなければならないシチュエーションを想像し・・・・・・
 ダメだ。
 僕は酒を一滴でも体に入れると体中が発疹に覆われてしまい、それが数日間 は続く事を思い出し自由になっている左腕を持ち上げ手の甲を見る。何とも無い。 って事は、やはり酒なんて呑んじゃいないって事だ。
 そりゃおめでとう。
 自分に祝杯だ。
 酒なんか呑んでたらしばらくは布団から身動き取れなくなってしまう。しかし、だ。 とすると、どうやら僕は記憶障害になってしまったらしい。それとも人格障害か。 いくら何でも寝ぼけたままで服を着替えて外に出たとは思えないからね。
 それにしても僕はいつからこうしていたんだろう。体はだるいし、右腕は痺れた ように重いし、右のこめかみがごりごりと痛む。それに水浴びでもしてきたのか、 上着がぐっしょりと濡れて張り付く。
 気持ち悪い。
 そういや、誰かに呼び起こされたようなそんな気もする。そいつに聞けば僕の 置かれている現状を把握できるかもしれないしそいつだって何も知らないかも しれない。
 そもそも僕は誰なのか。まあ自分の名前やら生い立ちやらはこの際どうでも いいだろう。我思う、故に我あり。コギトエルゴスム、だったか? 過去の事を 忘れているってのは素晴らしい財産だと思わないか。どうせ記憶に留めて おきたいような事なんてなかったんだろうから。

「その通りだよ、君」

 は?
 誰か、居るのか?

「君の今までの人生はお世辞にも幸せとはいえなかったね」

 おいおい誰だよ、アンタ。
 僕の知り合いかい?

「まあ、そんなところだ。細かい事は気にしないでくれたまえ。ところで私の話を 聞いてみる気はないかい? いや、聞きたくないはずがないね、うん。それでは ・・・・・・」

 何だか勝手に合点して話し始めたぞ。

「人間とは環のようなものだとは思わないかい?」

 あ、その言葉は。いつか、どこかで。

「人の心は脆い。だからこそじっくりと数十年をかけて丹念に育てないといけない んだ。陶芸のように、上薬を塗っては窯で焼く・・・・・・そんな作業を幾度も 幾度も繰り返して、やっと”まともな人間”になれるんだよ。でも、君は違った。 君の心は完成を急いだ。他人の倍以上の速度で老成した結果、君の心は 小さくて融通の利かない、それでいて綻びやすい小さな環にしかならなかった んだよ」

 この展開はなんだ?

「人は他人と繋がりを求めずにはいられない。人は自分自身の環に切れ目を 入れて他の環に接続しようとするし、場合によっては環の形を柔軟に変えていく。 互いの環に切れ目を入れたり、一方的に自分の環を押し付けて相手の環を 傷つける事で接続を果たそうとしたり、自分自身の環を引き裂こうとするかも しれないね。それでもその傷は接続している間にゆっくりと、または一気に塞がって いくんだよ。そして以前よりも大きい環になる。もちろん今度は接続された環を 一方的に引きちぎってしまう事も・・・・・・」

 声をする方向を見ようとしても、そこには闇がわだかまっているだけだ。

「それは世間で言うところの”時間が癒してくれる”って事で、まあその内なんでも なかったかのように環は復元し、また誰かの環に接続しようと試みるだろう。 だけど君は違った。君の持つ環は、あまりにかたくなで相手に合わせて形を かえる事も出来ないし、かといって自分の環に切れ目を入れる事もできなかった んだ。あまりに危ういバランスで保たれている君の環は、そんな事をしたら復元 不可能な状態へと落ち込んでしまうから。だから君が採択できた方法はたった ひとつだけ。他の環に自分の強固なそれをぶつけ、相手に認めさせる事。 それしか君にはできなかったし、そうする度に、相手だけではなく自分自身をも 傷つけつづけてきたんだよ君は」

 何を云っているのか解らない・・・・・・いや解る。

「そしてとうとう限界に達したんだよ。さっきも言ったけど、普通なら他の環に 接続する事によって、自分の環を大きくする事ができる。たとえ一時的に 引き千切れて傷ついても、折れた骨がより強固になるように、常に成長を 続けるものなんだ。でも君は違う。傷ついて千切れる度に、君の環はどんどん 小さくなっていった。欠けた環を修復するのに、普通なら出来てしまった隙間を 何か別のもの・・・・・・例えば未来への希望だとか、自分に対する慰撫、 刹那的な喜びなんかで埋めようとするけど、君は残った部分を引き伸ばして表面上 何とも無かったかのように振舞った。でも実際は、環の密度が薄れていく一方 だった。失われた心を補完する事が出来なかったんだ」

 なるほどな。だから僕には何も残っていないんだ。
 自分自身を喪いながらここまでやってきたってわけか。

「でも君は貴重な存在だったよ。人が人を必要としないで存在できるのだという、 とても素晴らしい事を証明しようとしたんだからさ。でもやっぱり現段階では そこまでの完全さを求める事は出来なかったみたいだね。だから、私は君の心に 種を蒔いた。それは君の心の不純物を糧にゆっくりと成長し、やがて脆くなって 崩壊寸前の君の心の外側をすっかりと覆い尽くした。もちろん君に気づかれないように。 だからほら、最近の君は妙にハイじゃなかったかい? ティラミスを食べたわけでも ないのにさ!」

 くだらない。
 ティラミス、日本語でいう処の「私を元気にして」ってヤツか。
 そんな言葉遊びに何の意味がある。

「意味なんて無いさ。君は最早、君だけでは存在し得ないところまで追い込まれて しまったんだ。君はそんな自分からの解放を望んでいただろう? だから今まで 観察させて貰ったお礼に、君を解放してあげようと思ったんだ。その為に種を蒔いて じっくりと育てたんだから」

 何を云ってやがる。
 僕は僕だ。
 僕以外の意識が僕の中にあるなんてそんな話信じられるか。
 僕は僕自身の理由によって、あんたが云う処の「環」が崩壊しようとしているんだ。
 とにかく僕は疲れている。
 もう放って置いてくれないか。

「なるほどね。もう総てを放棄したいと、そういうんだね。それも尤もだし、それが 私に出来る最善の事なのかもしれないね。じゃあ仕方ない・・・・・・さあ、総てを取り戻したまえ!」

 痺れていた右手に感覚が戻ってきた。
 ずきずきと痛んだこめかみの知覚も。

  何だ・・・・・・そういう事か。
 痺れていた右手には一挺のオートマティックが握られていたし、
 こめかみが痛かったのは、銃口を力一杯押しつけていたからだ。

 服が濡れていたのは血だ。

 もちろんこれは僕のじゃあない。
 喪われた環を補完しようと誰かに近づいて、そしてやっぱりその相手を傷つけた。
 辺りを見回しても誰も居ない。
 ついさっきまで話していた筈の男も本当に居たのかどうか。

 あれは僕の幻覚かも知れない。
 僕が望んだ、もう一人の僕なのかも知れない。
 何のために?

 僕を救う為に。
 僕を殺すために。

 最早僕自身、何に懊悩していたのかわからない。
 仕事?
 受験?
 恋愛?
 生活?
 それとも───

 まあいい。
 不完全な環は閉じられるべきだ。

 自らを呑み込んだウロボロスのように、
 僕は僕を滅ぼすだろう。
 久しぶりに感じる右手の感覚が引き金に添えられる。

  おいおい、待てよ。
 慌てるな、安全装置は外したか?
 弾倉からしっかりと弾を装填してあるか?
 ・・・・・・ならオーケイ。

 もう云うべき事はないね。
 後は人差し指に力を込めるだけ。
 さあ、最期の仕事だぞ。

 環を閉じたら、
 僕は僕を越えられるかな?

 さあ、それはどうかな。
 僕は人差し指にゴーサインを出した。

 環が───閉じる。


- 了 -

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