「御主は何者じや?」
「何を云ふのです、御老。私は・・・・・・私は・・・・・・」
「解らぬのじやろうて。然もあらぬ」
「御老は私が誰かを存じておられるのですか?」
「無論。それより・・・・・・此処が何処だか御主には解るか?」
「此処は・・・・・・此処は・・・・・・何処でせう。何も見へませぬ。何も匂いませぬ。
何も聞こへませぬ。何故御老の声だけが聞こへるのでせう」
「此処は深き処。まつたき深き処。そして御主は・・・・・・」
「私は・・・・・・どうなつているのでせう。何も思い出せませぬ。さふ云へば御
老、あなたは何故私の事を知つているのでせう。嗚呼、私の中に何かが入つ
て来る。口からも鼻からも眼からも、躯のあらゆる処から何かが・・・・・・これ
は水・・・・・・塩辛ひ・・・・・・海の水が私の躯に充満していく」
「わしは御主が此処に来るずつと前から此処にいる。冷たひ海の底に・・・・・・
御主はすぐにわしになる。わしも昔は御主じやつた。わしはもう此処から動
く事も出来ぬ。御主も何れそふなる」
「海・・・・・・私は海に居るのでせうか。苦しくは無ひ。いいへ、私は息をして
いなひ。嗚呼、躯が動かなひ。手も脚も、瞳すらも・・・・・・やつと解つた。動
かないのではなひ。無ひのだ。手も脚も、瞳すらも」
「やうやく解つたか。御主は最早御主では無ひ」
「では、私は一体何者なのでせう。私が私以外の者だと云ふのでせうか」
「何れ解る。わしもその時は解らなんだ」
「御老・・・・・・私は、」
「それ以上云ふな。考へる必要は無ひ。もう、時間じや」
「時間・・・・・・何の時間が来たと云ふのです」
「わしが御主になり、御主がわしになる・・・・・・時間じや。わしは人では無ひ
が、御主は人じや。やつとわしは人に成れる」
「では、では、私は人では無くなつてしまふのですか? 何故・・・・・・何故私
がそう成らなければいけなひのです。私は・・・・・・私は、」
「さて、何故かのう」
「私は、人で在りたひ」
「時間じや」
「・・・・・・あれからどれくらい時間が経つたのだらう。暗ひ海の底で長ひ時を
過ごしてひる。私はたうたう躯と云ふ器を無くし、今や海そのものと成つて
しまつた。成程、これでは最早人とは云へぬ。さて、もうそろそろか」
「此処は?」
「来ましたね。さて御老、貴方は何者です?」
「何を云ふ。わしは・・・・・・わしは・・・・・・」
「解らないでせう? でも何れ解りますよ・・・・・・私もさふでしたから」
- 了 -
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