僕はその日、暇を持て余していた。
だからこんな処にいるんだろう・・・・・・
僕は自分が何故こんな処にいるのかにそう理由を見出した。特に理由が見
当たらない以上、きっとそうなんだ。何でそんな事を考えてしまったのかと
云うと、やはり暇だったからだ。
空を見上げる。
雲一つ無い、とはこの事か。視界に映るのは一面の蒼穹。
気分が良い。
こんなに暑くなければ、の話だが。今日の最高気温は三十度近いらしい。
こうしている間も天空の太陽は僕の躯をじりじりと睨んでいる。その眼前に
は長い間使われていないであろう事が傍目にも解る程古びた校舎が聳えてい
る。
もうすぐ取り壊される予定の高校の旧校舎。前年に新校舎が落成されたた
め、この夏にもこの古びた建物は消滅する。すでに建物の東側は取り壊され
ていた。
この西側旧校舎は当時、視聴覚室とか図書室といった授業以外の事に使わ
れていた。そして僕の前にある教室は図書室。僕にとって懐かしい記憶が残
る場所。
僕は本が好きだった。昔から内向的な性格で、友達と外で遊ぶより本を読
んでいる方を好んだ。それは現在も変わらない。高校を卒業し地元の大学で
編入したのは国文学部。
だから僕は高校時代この図書室に週に数度も脚を運んでいた。学校の図書
室というのは、えてして人気が無い。こんな処に来るのは余程本が好きな人
間か、独りになりたいという者だけだ。
僕はその両方に該当した。元々友人らしい友人も居なかったが、教室に居
ても騒がしいだけだ。昼休みはそそくさと食事を終えると消えるように図書
室に来ていた。
校舎からは既に窓が取り払われていた。僕はひびの入ったコンクリートを
物憂げに一瞥し、窓を乗り越え中に入った。じゃり、と靴底が何かの破片を
踏む。よくよく見れば中は荒れ放題だ。床には塵芥が絨毯のように積もって
いる。所々陽の光を反射しているのは硝子でも混ざっているのだろう。壁も
塗料が剥がれ落ちひびが縦横無尽に走っている。
眼前に懐かしい、在学中に何度と無く開けた扉があった。その扉も薄汚れ
ている。扉に手を掛け横に引く・・・・・・数センチ程隙間が出来た所で軋んだ音
を上げて扉が止まる。
少し力を加える。
開かないか? そう思った刹那、扉は埃と軋みを目一杯撒き散らしながら
開いた。埃は手を払って、軋みは我慢して中に入る。
中は閑散としていた。床には埃が積もってるし、打ち捨てられた本棚や机
も薄汚れている。窓には硝子が無いけど、黄色くなったカーテンが日光を遮っ
ている。
懐かしいな・・・・・・僕が卒業してからあんまり変わってない。本棚の位置も
そのままだし、壁の傷痕も覚えている。
部屋の一番奥に在る八人掛けの机。その一番端が僕の指定席だった。僕は
ここに来る度にこの席に座っていたんだ。この机も当時の物と変わってない
みたいだ。見覚えのある傷や油性ペンの落書きがまだ薄っすらと残っている。
いつも座っていた場所に座ってみる。すぐに見慣れた懐かしい情景が映っ
た。そこから見える本棚、壁や天井、扉の硝子窓から見える廊下も。総てに
懐古の念を覚える。眼を閉じれば当時の様子が浮かぶ。
そういえば・・・・・・僕と同じようにいつもこの場所に来ていた娘がいたな。
彼女はいつも僕より先に来ていたような気がする。昼休みも放課後も、僕が
来てみるといつも彼女が居て、彼女より早く来ようとしてみた事もあったけ
ど結局駄目だった。彼女はいつも決まって一つ向こうの机に僕と向かい合う
ように座っていた。
彼女も僕には気がついていたと思う。僕が来るとちらり、と僕の方を窺っ
て何事も無くまた本に没頭した。彼女は僕と同じ学年だったのだろうか。卒
業ぎりぎりまで図書室には来ていたけど、彼女も来ていた。僕より学年が上
と云う事は無いだろう。
結局卒業するまで互いに話すどころかまともに眼を合せた事すら無かった。
最初は気になったりしたが、時間が経つと偶に彼女が居ないと落ち着かなく
なるようにまでなった。今考えると妙なものだ。
立ち上がって再度教室内を歩く。
あれ?
机の下に一冊の本が落ちているのだ。紅い表紙の文庫本が。しゃがみ込ん
で良く見ると、どうやら最近誰かが落としたらしい事が解る。表紙には埃が
付着していないのに、本の下には既に埃が潜り込んでいる。
こんな廃校舎に僕以外に人が来ていたとは驚きだ。ここは新校舎から遠く
離れているし、辺りには何も無い。だから偶然ここに来たなどということは
考えられないのだ。僕のようにここに来ようとしなければ、だ。
紅い表紙はカバーのようだ。ページをめくり内表紙を見る。
『江戸川乱歩 屋根裏の散歩者』
と書かれている。乱歩の作品でも異質で人の心の内を描いた、ある意味で
ホラー小説とも取れる作品に仕上がっている。僕が初めて読んだ乱歩の本だ。
でもこんな本が何故此処に・・・・・・今時この本をカバーを掛けてまで大事にし
ている人がいるなんて。
僕もこの場所でこの本を読んでいたものだ。
微かな既視感。
外を見ると太陽がだいぶ傾いているようだ。今日の処はもう戻ろう。手に
持った文庫本を眺める。
取り敢えず持って帰ろう。
次の日も良い天気だった。僕は昨日拾った本と、自分の読みさしの本を持っ
て再度あの旧校舎の図書室跡に訪れた。教室に入ると昔のように自分の場所
に向かった。机と椅子に積もった埃を払い座る。
ふと正面を見た時、妙な気分に陥った。何かが違う。昨日ここを訪れた時
と何かが違う気がしたのだ。それが妙に気になって、僕は降ろしたばかりの
腰を上げた。
そして気がついた。何がおかしいのかを。それは昨日文庫本を拾った場所
で起きていた。そこの場所にあった椅子が避けられ、大きく空いていた。よ
くみれば机もずれているようだ。すると昨日文庫本を落とした人があれから
ここに来たのだろうか。
失敗だったかな?
あのままにしておけばよかったのだろうか・・・・・・
でも、ここは天井も破損が酷いし窓硝子も無い。雨でも降ろうものなら濡
れてしまう。今日も探しに来るだろうか。まあ今日は一日中此処にいるつも
りだし、来たら渡して上げれば良いか。
それから約半日が過ぎたがこの本の持ち主は現れなかった。本の持ち主ど
ころか誰独り此処に来た者は無い。昼間あれだけ暑かったのに、だいぶ肌寒
くなってきている。上着も用意していないし今日はこれくらいにして帰ると
しようか。
でもこの本はどうしようか? また持って帰ろうか? でも持ち主が来た
りしたら困るよな・・・・・・でも置いておくのもちょっと考え物だ。ここは夜結
構冷えるから結露して本が濡れてしまうかも知れない。
仕方無い、メモでも置いておこう。
此処は涼しいな・・・・・・
僕は今日は図書館に来ていた。長い夏休み、暑い日は此処に限る。静謐で
広大な空間に詰め込まれた大量の図書。何て素晴らしい場所なんだ。今日は
午前中此処で本を借り、午後になったらあの場所に行ってみよう。
今日は何を読もうか。
最近は推理小説を愛読している。昔からこの手の小説が好きだったのだが、
ここ暫くはいい作家が居なかった。コナン・ドイルのシャーロックホームズ
シリーズがお気に入りだったのだが、最近の社会派推理小説にうんざりして
読むのを止めたのだ。だが此処に来てそれが変わった新本格と呼ばれる昔を
髣髴させる新ジャンルが生まれた。綾辻行人が産み出したこのジャンルは若
い人々に受け入れられ、より進化している。僕が特に気に入っているのは京
極夏彦のシリーズだ。メランコリックな処がまたいい。
夏休みと云う事で学生らしい姿が見られる。と云っても午前中だけあって
その姿はまばらだ。僕を覗くと数人しか居ない。机で本を読んでいる者も居
れば書架を眺めている者も居る。
僕は沢山ある書架の間を抜け「き行」の書架に向かう。そこには僕より先
に一人の女性が居た。その女性に気を付けながらそっと後ろから書架を窺う。
その女性は肩下まであるストレートの髪を耳に掻きあげると、一冊の本を書
架から取り出した。
その本は異様に分厚い。千ページ程あるだろう。女性はぱらぱらと本をめ
くる。表紙には「京極夏彦 絡新婦の理」と書かれている。僕が狙っていた
新作だ。
女性は暫くページをめくっていたが、軽く肯くとその本を持って違う書架
に移動してしまった。
午後になってから僕はあの旧図書室へと脚を運んだ。今日は多少の風が在
るせいか、昨日より結構涼しく感じる。部屋に入ると取り敢えず、硝子の無
い窓でそよいでいるカーテンを半分ほど開けた。風が僕の頬を撫でながら部
屋に入って来る。
そしていつもの定位置に腰を据えると、借りて来た本を机の上に置いた。
ここで暫く時間を潰しながら待つとしよう。
僕がそれに気が付いたのはそれから十分程してからだった。暫くは借りて
来た本を読んでいたのだが、ふと前を見た時それを見つけた。
一枚の紙切れ。
昨日までは確かに無かった物。
近寄って良く見ると、それはどうやら千切ったメモ帳の一部らしい。表に
は何も書いていない。裏返すと何やら走り書きしてあるのが眼に入る。
・・・・・・メモを読みました。本を拾って下さってありがとうございます。次
の日に探しに来たのですが、無かったので落胆していた処でした。この本
は思い出深い大切な本でしたのでとても嬉しかったです。まさかここに人
が来るとは思わなかったので尚更です。
それで今日の午前に来てみたのですが、居ないようでしたのでこのメモ
を置いておきます。これであいこですね。残念ですが、今日は午後から用
事があるので来る事が出来ないのです。ごめんなさい。夏休み中と云う事
でしたので、宜しければ明日改めてここで待ち合わせて下さいますか?
わがままな事を云って済みません。逢えるのを楽しみにしています。十
二時には来るようにします。
何だ、もう来てたのか。図書館に寄らずに先に来ていれば良かったんだ。
夏休みだからいつでも渡せますと書いておいて良かった。落としたのは女性
だったのか。
明日も暇だし、何か楽しみだな。これも一応女性と待ち合わせって事にな
るよな。解ってはいても心が弾む。不謹慎かな?
でも、一冊の本にこれだけの情熱を注いでいるなんて余程本が好きなんだ
な・・・・・・だとしたら、ここで出会ったあの娘もきっと同じ位好きなんだろう
な。話す機会は無かったけど、話くらいはしてみたかった。
あの人はどんな本が好きなんだろう。
あの人は何処に居るんだろう。
あの人は今何をしているんだろう。
あの人は・・・・・・誰の事を・・・・・・
あれ?
もしかして、僕は、あの人のことを、あれ・・・・・・
本当にそうなんだろうか。僕は今まで女性に恋をしたという記憶が余り無
い。別に女嫌いと云うわけでもないし、多少は仲の良い女性も居なかった訳
でも無い。
でもその気持ちが恋にまで昇華したした事は無かった。いや正確には一度
だけ、そんな気持ちになった事が在った。中学二年生の頃だ。気が付くとそ
の娘の事が気になって仕方が無くなっていた。いつも視界の端に彼女を見て
いた。
何とかして話すきっかけを創ろうと躍起になっていた。
その努力が実り少しずつ話が出来るようになって、いつ彼女に気持ちを伝
えようか思案していた矢先にそれを見てしまった。
彼女が隣のクラスの男と待ち合わせて一緒に帰って行くのを。その時の衝
撃は筆舌に尽くし難い。躯が震えた。僕が見たのはそれだけだったが、友人
たちの噂を聞くと、やはり二人は付き合っているらしかった。
その事が僕にどういう影響を与えたのかは解らない。多分心の奥底で無意
識の内に、誰かを好きになる事に歯止めを掛けていたのだろう。もう二度と
あんな悲しい事にならないように。
それから高校に入学してもそれは変わらなかったのに。大学に入学しても、
コンパとかで可愛いなと思うような娘はいたが、そこから先に進まない。い
つしかそれが当たり前になっていて別に苦痛に思うことは無くなっていた。
でもそれは僕の勘違いだったのだろうか。実は図書室で出会っていたあの
女性に恋をしていたのだろうか。
自分の気持ちに今頃気が付くなんて。
つくづく愚か者だ。
僕は今まで気付かなかった想いに触れ、そしてそれが余りに遅すぎた事を
知って胸が重くなった。無意識の内に溜め息まで吐いている。
でももう大丈夫だ。これからはちゃんと女性を好きになる事が出来るだろ
う。これからは・・・・・・
さあ、今日は帰ろう。明日が楽しみだ。
僕は自身の心が晴れ晴れしているのに気が付いて、その気持ちを楽しみな
がら校舎を後にした。
この日の僕は妙に落ち着かなかった。何故なのかは解っている。自分の深
層を覗いたせいだ。自分の事なのに、自分で納得出来ない。僕の心が僕の心
に対して拒絶反応を示しているのだ。
自分の中に他人が棲んでいるような錯覚に囚われて、妙に居心地が悪い。
一方の僕は沈んだ気持ちでいるのに、もう一方の僕は女性と待ち合わせてい
るのを喜んでいる。
僕は誰も居ない閑静な公園のベンチで独り、煩悶していた。時は午前九時、
待ち合わせにはまだ間が在る。昨日は自分の気持ちに気が付いたのに興奮気
味だったが、一晩経つと妙に考えてしまう。
あれは僕の本当の気持ちなんだろうか・・・・・・
例えそれが本当の気持ちだったとしても今更どうしようもない。それなら
気が付かなかった方が幸せだったのかも知れない。別に僕は気が付こうとし
ていた訳じゃないのに・・・・・・
ふと悔恨の念に囚われてしまう。
もう遅いのだろう。
でも僕も変わった。以前の僕じゃない。これはこれで良いのかも知れない。
そう思う事で僕は暗い暗澹たる気持ちにけじめをつける事が出来た。
時計を見ると既に十時を過ぎている。今日は遅れないように早めに行こう。
太陽の照り返しを受け、古い旧校舎も輝いて見える。辺りにはまだ多くの
碧が残っていて、心無しか空気が澄んでいるように思える。風が一陣、僕の
髪を撫でると、木々がさわさわと揺れ鳥たちが一斉に飛び立つ。
僕は深く息を吸うと、悠然と廊下に脚を踏み入れた。目指すのは廊下の一
番端の扉。僕はゆっくりと扉に手を掛け、開ける。
中にはまだ陽光が届かず、薄暗い印象を受ける。それでも風がカーテンを
はためかせると、思い出したように陽光が部屋を照らす。刹那の陽光が女性
のシルエットを浮かび上がらせた。眼が薄暗さに慣れると、小柄で細い姿が
僕の視界に飛び込んで来た。
その姿を一瞥してゆっくりと部屋に踏み入る。きしり、と古びた床が悲鳴
を上げたが、その女性は振り向こうともしない。僕は殊更ゆっくりと脚を進
めた。
僕はいつもの席に座り正面を見る。その女性が座っているのは僕の眼の前、
即ちあの娘が座っていた場所だ。そして彼女は読んでいた本から眼を上げ本
を閉じる。それは分厚い、いつか図書館で見た本だった。
彼女は肩下まである長い髪をそっと掻きあげ、僕を正面から見据える。
ああ・・・・・・彼女は・・・・・・何処かで・・・・・・
一年以上も昔に、ずっと見ていた彼女と、初めて視線が交差した。
彼女は僕を見て微妙に表情を変えた。瞳が輝いたように見えた。
そして本に添えられていた形の良い両掌を頬に当て、机に肘を突いて小さ
な顔を預ける。そのまま小頚をこくん、と傾げる。さらさらと聞こえそうな
ほど美しい濡れたような黒髪が、それとは対照的な白皙の頬を流れ、微かな
風に揺られる。
上眼使いに僕をみたその表情は恥ずかしそうに微笑みを浮かべていた。
彼女の桜色の口唇が震え、言葉を紡ぐ。
「・・・・・・久し振りですね」
また僕は遅れてしまったらしい。
- 了 -
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