魂魄堂 書庫

- Murder Game 〜殺人遊戯〜 -


*午後三時*


「ふうっ、いい所ねぇ」
 森川望はそう言って、窓を開け躯を乗り出した。開いた窓から爽やかな風が入り込んできて、疲れた躯を撫ででいった。
「元気だな、君は」
 大仰な荷物をテーブルに置いて阿崎玲治が語りかけた。
「そりゃそうだ。ほとんどのの荷物を俺に持たせやがって」
「あら、木内が言ったんじゃない『荷物を持ってやる』って」
 阿崎の後から入ってきた木内武博が、息を切らしながら床に荷物を置いた。「荷物を持ってやる」などと仏心を出したおかげで、 二人分の荷物を持って山道を登る羽目になってしまったのだ。
「だからってあんなに持たせやがって。遠慮って言葉を知らないのか」
 そう毒つくと大きなソファーに身を沈めた。
「でも、私の荷物を持ってくれた阿崎君は文句を言いませんでしたよ」
 長い髪を掻きあげながら深見涼子が姿を現した。小柄な深見はてくてくとテーブルに歩み寄り、阿崎を手伝って荷物の整理を始めた。
「僕はちゃんと『少し』という接頭語を付けたからね。それに深見さんは荷物を押し付けるような真似はしないし」
「それじゃ、あたしが荷物を押し付けたみたいじゃないの」
「その通りだろうが」
「それは言わないの」
 森川は窓を閉めるとキッチンへ向かう。やかんに水を入れ火にかけ、食器棚からコーヒーカップを四つ取り出し、 ティーカップを一つ。森川はコーヒーを好まなかった。そしてインスタントコーヒーとティーバッグを取りにリビングに戻る。
「コーヒー、飲むでしょ?」
 皆が頚を縦に振るのと時を同じくして扉に人影が現れた。
「僕はミルクと砂糖をお願いします」
 肩で息をしている男はそう言って荷物を下ろす。
「あら瀧澤、遅かったじゃないの」
「え? いやちょっと靴を脱ぐのに手間取りまして・・・・・・」
 瀧澤久雄は困ったように答える。彼は山登りと聞いて、本格的な登山用のブーツを用意していた。 が、それが裏目となり部屋に入るのが遅れてしまったのだ。
「でも、よくこんないい所が見つかりましたね」
 部屋を見回して瀧澤は感嘆の声を発した。


 ここは都会から遠く離れた某山中にある山荘である。都内の某大学に籍を置く学生達が今日、ここに集まっていた。 と、言っても元元は高校時代の仲間で、全員が同じ学校にいる訳ではない。深見と阿崎が同じ文系の大学だが、 他の三人は別の大学に行っていた。
 木内のつてで安くこの「紫水荘」を借りる事が出来ると言うので、久しぶりに集まる事にしたのだ。 実の所この山荘は余り流行っている訳ではない。場所が高い山の中腹にあるため、人里からは遠く離れていて 歩こうとすればゆうに二時間はかかるであろう。幸いな事に電気、ガス、上下水道は常備されており、電話も通じている。 更に辺りの路は入り組んでいて、夜ともなれば鬱蒼と茂った森林を抜けるのは地元の人間でもしない。
 それでも真夏ともなれば、登山客や余暇を過ごすために結構な人数がやってくる。今は初秋の頃で、 早い話シーズンオフなのであった。久しぶりの同窓会をこの場所で、と企画したのは意外にも木内だった。 もっとも事実上の幹事は阿崎と深見が行ったのだが。
 荷物を各々の部屋に置き、再びリビングに集まる。その頃にはお湯が沸いており、最初に戻ってきた深見が 熱いコーヒーと紅茶を淹れた。
「木内君、砂糖は?」
「いや、俺はブラックでいいんだ」
 自分に廻ってきた砂糖を隣の阿崎に渡すと、まだ熱いコーヒーを口に含んだ。心地好い苦みが舌に絡まる。
「ちょっと俺、散歩してくるわ」
 コーヒーを飲み終えると木内が立ち上がった。ここに到着したのが午後二時過ぎ、夕食までだいぶ時間があった。 宿泊予定は三伯四日だったので、辺りの様子を調べておくのも悪くはなかった。
「迷わないでくださいね」
「夕食までには帰ってくるのよ」
 深見と森川はそう言うと、食材を持ってキッチンに入っていった。
「俺は子供じゃないっての」
 苦笑いを浮かべながら木内は外に出て行く。
「それじゃ、僕は絵でも描こうかな」
 瀧澤は絵画の趣味を持っていた。主に自然画を描いており、この旅行が決まったときも新しいキャンバスを買い込んでいた。 瀧澤は嬉々として準備を整えると、木内の後を追うように外に出た。
 そうして一人残される形となった阿崎だが、彼は元々インドアのタイプなので進んで外に出ようとはしなかった。 用意していた文庫本を取り出すと、少し冷めたコーヒーをすすりながら読み始める。
「何であたし達だけで夕食の準備をしなきゃいけないの?」
「でも彼らに手伝わせたら、ちゃんと食べられる物が出来るかどうか心配ですもの。それに木内君が手伝ってくれるわけが無いじゃな いですか? 阿崎君なら解りませんけど」
「ふうん、やけに阿崎の肩を持つじゃない?」
「そ、そんなことは無いですけど・・・・・・」
 赤面しながら皿を洗い続ける。食器類はこの山荘に用意されていたが、幾分埃をかぶっていてこうしないと使えたものではない。 夕食、と言ってもそんなに凝ったものを作るつもりはない。やはり定番のカレーライスにしようと二人は目論んでいた。

*午後七時*

 太陽が西の山に隠れ、辺りが闇色の帳に包まれようとするとき瀧澤が戻ってきた。手には木炭で微妙に表現された草原があった。 瀧澤がリビングに入ると、既に木内は戻ってきていて、阿崎の文庫本は終盤に差し掛かっていた。
「絵の進み具合はどうだ?」
「だいぶ進みましたよ。やっぱりいい環境で描くのはいいですね」
 木内の問いに瀧澤は満足そうに答えた。そのままキャンバスを置くため自分の部屋に向かう。
「みんな揃った?」
 キッチンに詰めていた森川がエプロンを着けたまま顔を出す。全員揃った事が解ると、満足そうに笑みを浮かべて戻っていった。
「あ、カレーですね」
 戻ってきた瀧澤が入ってくるなり鼻をひくつかせる。その通り部屋には香ばしいカレーの香りが漂っていた。 それから暫く雑談を続けていると、キッチンから女性二人が鍋を持って姿を現した。
「はーい出来たよ!」
「お口に合うかどうか解りませんけど・・・・・・」
 二人は料理をテーブルに置くと、エプロンを脱いでテーブルについた。
「旨い!」
 一口食べた阿崎の口からその言葉が出たとき、二人の女性は顔を見合わせて笑みを浮かべた。 他の二人は味が判るのか判らないのか、がつがつとスプーンを口に運んでいる。 ただ阿崎だけが、女性二人に気を使って感想を述べた。勿論、嘘を言ったわけではなく本当に旨かったのだ。
「以外だな、森川さんの料理がここまで美味しいとは」
「あー、ひっどいの。これでもあたしの趣味は料理なんだから」
「そうそう、森川さん料理上手なんですよ。私なんてぜんぜん及ばないんですから」
「水が無いじゃないか」
 木内は立ち上がりキッチンに入っていく。棚にあった水差しを見つけると、それに水をなみなみと注ぎ込んだ。
「あたし達のグラスも持ってきて」
「持ちきれないって。滝沢、ちょっと来い」
 呼ばれた滝沢がキッチンに入る。グラスを取り出す音が響くと、暫くして滝沢が水差しを持って戻ってきた。 それに続いて木内が盆に人数分のグラスに氷を入れて戻ってきた。木内が珍しくそれを配って廻る。
「ご馳走様」
「旨かったよ」
 ほぼ全員が同時にスプーンを置いた。
 食事が終わると、二人の女性は後片付けの為にキッチンに戻った。瀧澤は絵に手を加えると言って部屋に向かった。 その頃には完全に太陽が沈み、辺りは闇だけが存在していた。
 まだ初秋とは言え、この辺りは夜になると寒さが厳しくなる。木内は用意されていた薪を暖炉にくべ火を着けた。 次第に火が強くなり、ぱちぱちと音を立てて薪が爆ぜる。
「僕も手伝おうか?」
 暇を持て余した阿崎がキッチンに入っていって言った。
「あ、ありがとうございます」
「それじゃ、皿でも拭いてもらおうかしら」
 その指示に従い皿を拭く。後片付けと言っても数枚の皿に、ルーを入れた鍋が一つあるだけである。 ものの二十分程で作業は終了した。
「トランプでもやろうぜ」
 台所仕事を終え、リビングに戻ってきた三人に待ちかねたように木内が声を掛けた。どうやら暇を持て余しているようである。
「いいな」
「じゃ、トランプあたしの部屋にあるから取ってくる。ついでに瀧澤も呼んでくるわ」
 ぱたぱたとせわしなげな足音を立てて廊下に出ていった。扉をノックする音が聞こえ、やがて瀧澤が部屋に入ってきた。 それからさほどの間を置かずに、森川がトランプを手に戻ってくる。
「さあて、何から始めようか」
 阿崎が華麗なカード捌きを見せ言う。
「まずは定番のババ抜きでしょう」
 瀧澤の提案を受け、阿崎がカードを配る。総てのカードを配り終えると阿崎が瀧澤のカードを引いた。

*午後十時*

「また僕の負けですかあ?」
 瀧澤は手元のカードを眺め、溜め息を吐く。ババ抜きを何度かやり、ブラックジャック、ポーカーへと移行していた。 瀧澤は勝負弱いのか負けの回数が一番多かった。
「あら、もうこんな時間なんですね」
 深見が腕時計を眺め呟いた。時計の針は既に十時を廻っていた。
「そうね、明日は山頂までハイキングの予定だから、もうそろそろ寝ましょうか」
「そうだな」
 その案に同意すると、皆それぞれの部屋に戻っていった。森川を除いて。森川は皆と反対にキッチンに入っていった。
「どうかした?」
 それを見ていた阿崎が振り返り声を掛ける。
「え、ああ。ちょっと寝る前に何か呑もうかと思ってね」
 阿崎はそれに笑顔で肯くと、
「夜更かしも程々にね。美容に良くないよ? もう若くないし」
「ふーんだ、解ってますよ」
 べぇ、と舌を出すと阿崎の脇をすり抜けて部屋を出た。
「さて、僕も部屋に戻るとするか」
 そう呟くと、リビングの電灯を消して扉を閉めた。深淵と静寂が辺りを支配し、静かな夜が更けていった。


 こんこん・・・・・・こんこん・・・・・・どん・・・・・・どんどん。
 不意に静寂が破られ、不規則な和音が辺りに響いた。
「何だ?」
 部屋で二冊目の文庫本を読み出していた阿崎が、最初にその異変に気が付いた。風の音だろうか? 阿崎は耳を澄ませてみた。だが その音ははっきりと山荘内から聞こえてきた。
 扉をゆっくりと開け、顔を出してみる。すると、扉をノックする木内の姿が見えた。暗がりの中、小さく何度も繰り返している。 阿崎の姿を認めると、その行為を中断して阿崎を見た。
「何をやってるんだい? そこは確か・・・・・・森川さんの部屋だね」
「そうなんだ。俺の部屋は森川の隣だろう? さっきコーヒーカップが割れる音が聞こえたんでどうしたかと思ったんだが・・・・・・」
「返事が無い?」
「そうなんだ」
 二人の対話が聞こえたのか、瀧澤と深見の部屋の扉が開いた。瀧澤はまたあの絵を描いていたのか、 手に絵筆を持っている。深見の方はもうベッドに入っていたのだろう、パジャマの上からカーディガンを着て扉から顔を覗かせていた。
「何かあったんですか?」
 もっともな瀧澤の問いに二人は答える事が出来ない。その「何か」が二人にも解らないのだ。
「阿崎さん、どうしたんですか?」
 深見も同様の事を繰り返した。深見はパジャマに着替えていたため、扉から肩口だけを出している。 廊下は暖房も不十分で寒い。深見の口からは白い息が出ているのが見て取れた。
「それがね・・・・・・」
 深見の部屋は森川の部屋の反対側、廊下の奥にあるため遠い。阿崎は事情を説明するため深見の部屋の前に移動した。
「ちょ、ちょっと待って。着替えるから」
「ご、ごめん」
 扉が閉まり、暫くして開かれた。深見は先程までの服装に戻っていた。
「で、どうしたんですか」
「うん、取り敢えず森川さんの部屋に行こう」
 二人が戻っても扉は閉じたままだった。木内が扉を叩いているが、相変わらず効果が無い。 戻ってきた阿崎の無言の問いに頚を振って答えた。そこで改めて全員にこれまでの経緯を話した。 木内がコーヒーカップの割れる音を聞いた事。扉を叩いても、声を掛けても何の反応も返ってこない事。
「寝てる・・・・・・訳は無いですよね。カップが割れたんですし」
 深見は不安げに阿崎に尋ねる。
「そうだろうね。でも無反応って言うのも・・・・・・」
 阿崎も答えあぐねてしまう。起きているとしたら返事が無い筈がないのだから。暫くの間、沈黙が全員の口を封じさせた。
「窓はどうでしょう?」
「窓から覗いてみるか・・・・・・」
 他に方法が無いようなので、瀧澤の案を実行する事にした。木内を先頭に外から森川の部屋を覗いてみた。 あいにく窓にはカーテンが引かれていたので、中は殆ど見えない。僅かに合わせの所から中を知ることが出来る。 部屋は電灯がついていて、どうやらまだ寝てはいないようだ。そこからはベッドが見えたが、森川が寝ている様子は無い。
「おかしいな・・・・・・」
 阿崎が木内と交代して中を覗く。と、視界の隅にある何かが眼に留まった。それは床に転がっていて、見覚えのあるものだった。 紅いスニーカー、それは森川が履いていたものだ。この日の為に新調したといって見せてもらった記憶が鮮明に思い出された。 眼前にある靴はそれと少しも違わなかった。
 阿崎を驚かせたのはそれだけでは無かった。靴は投げ出されている訳ではなく、すらりとした脚に履かれたままなのが見て取れる。 黒いスラックスも森川のものだ。
「森川さんが床に倒れている・・・・・・」
 それが阿崎の出した結論であった。
「何だって?」
 そう問い返す木内の声を、風がかき消すように吹き荒れる。山荘に駆け込む阿崎を全員で追いかけた。 風でくしゃくしゃになった髪を撫でつけながら阿崎は問題の扉の前に立ち止まった。
 扉は先程と同じたたずまいを見せている。あれから変化があったようには見えなかった。阿崎は物も言わずにノブをがちゃがちゃと 廻してみた。当然、扉は開かない。
「森川がどうしたって?」
「彼女が・・・・・・森川さんが床に倒れているんだよ!」
 まだ状況を把握していない木内に早口で説明する。
「どうしよう?」
「鍵は、鍵は無いんですか?」
 瀧澤と深見は狼狽して木内に詰め寄る。だが二人の意に反してその頚は横に振られた。 一応、この山荘にもマスターキーは存在するのだが、木内は貸し切りにするため必要無しと借りてはこなかった。
よって扉の内側から鍵を掛ける以外に施錠の方法は無く、またそれを開ける方法もそれしか存在しなかった。
「中で何かあったのでしょうか?」
 その疑問は言った深見だけでなく、その場にいる全員が思っている事であろう。しかし今解っているのは、 森川が施錠した自室で床に倒れているらしいと言う事だけである。こちらの呼び掛けにも応答が無いということは、 意識を失っているのだろうか?
「こうなったら、扉を破るしかない!」
 言うが早いか、木内は手で皆を扉の前から避けさせ肩口から思いっきり体当たりした。 がん、と音が虚空にこだまし、やがて消える。少なくない衝撃が扉を蹂躪したが、 扉はその役目を果たすべく招かれざる来訪者を拒絶した。
 肩を押さえている木内に代わり、阿崎がその役目に就任した。向い側の壁ぎりぎりまで下がり、勢いをつけて扉に突き進んだ。 再度耳障りな音が響き渡り、深見は顔を伏せて耳を両手で塞いだ。瀧澤も眉に皺を寄せて眺めている。 結果は同じだった。扉は厚く、硬い材質で出来ており、そう簡単に事は運ばなかった。蝶番が悲鳴を上げ、ぎしぎしと軋む。 二度の体当たりは、全くの無意味と言うわけでもなく、ある程度の効果を上げる事には成功していた。
「二人でいくぞ!」
 それに肯いて答えると二人は息を揃えて脚を踏み出す。二人分の質量が扉にのしかかり、 やがて扉の耐久力を越えた二人は崩れるように部屋に踏み込んだ。
 二人が見た部屋は、自分達が使用している部屋と何ら違いは感じられ無かった。 ただ部屋の中央に据えられた椅子の側、窓に程近い所に森川が倒れているのが見えた。 うつぶせに倒れ、交差した両手に預けるように頭を乗せている。すらりと伸びたの右脚を僅かに曲げ、 そうしているとただ寝ているようにも見える。
「森川! ・・・・・・瀧澤、警察を呼べ!」
 一瞬、その状況に呑まれたように微動だにしなかった木内が、瀧澤に叫ぶように命じる。 と阿崎が森川の許に駆け寄り、その膝に抱き起こした。抱き起こされた森川の躯は力無く垂れ、 まるで生気が感じられない。阿崎は自分の嫌な想像を頭の隅から追い出す事が出来なかった。
「・・・・・・死んでる」
 阿崎の口から洩れたそれは最悪の知らせ。ついに追い出す事の叶わなかった悪夢。 それが今現実のものとなってしまった。後を追って入ってきた深見は口元に手を当て、眼を見開いたまま、 ただ押し黙っていた。眼前の悪夢を振り払うように顔を背ける。総てを消し去りたいとでも言うように。
「何て事だ!」
 木内は吐き捨てるように呟くと、既に動かなくなった森川に背を向け、窓際にあるナイトテーブルに手をついた。 よく見ればその手が小刻みに震えているのが解っただろう。握り締められた森川の手は、もう阿崎の手を握り返す事は無かった。 森川の顔は生前のそれと変わる事は無い。阿崎は見開かれた瞳をそっと閉じて、ベッドに横たえた。
 その時廊下が軋む音がして瀧澤が戻ってきた。その足取りは頼りなく、顔面も蒼白に変わっている。
「電話が・・・・・・通じない」
 やっと開かれた瀧澤の口から洩れたのは予期せぬ言葉。重なる不
幸に深見の口から微かな悲鳴が流れた。
「何で・・・・・・何で・・・・・・」
 恐怖の虜囚となってしまった深見は、頭を抱えこんだまましゃがみこんでしまう。全身が震え、その眼から大粒の涙がこぼれている。
それも無理からぬ事であろう。人の死、それも身近な友人が眼前で謎の死を遂げてしまったのだ。 少女の精神にどれほどの爪痕が刻まれたのか、想像に難くない。
「ん・・・・・・これは・・・・・・」
 木内が何かに気付いたように、テーブルの上に屈みこんだ。テーブルには、インスタントコーヒーと紅茶のティーバッグ、 それに紅茶が半ばまで残っているティーカップが置いてある。ティーカップの回りはこぼれた紅茶が飛散している。 側の床にはもう一つ、未使用のコーヒーカップが砕け落ちていた。
「この紅茶、甘い香りがする」
 鼻をくんくんとひくつかせ呟く。
「紅茶でしょう? 甘い香りがしても不思議じゃないです」
 森川の死から気を逸らそうと、深見が木内の言葉を受けた。まだ僅かに声が震えているが、気丈にそれを押し殺した。
「深見さんの言う通りですよ? 今はそれどころじゃないじゃないですか」
 瀧澤は感情の統制に失敗したのか、声が震えうわずっている。その眼は落ち着かなげにきょろきょろと辺りをさ迷っている。
「そうじゃなくて、なんて言うか扁桃臭って奴だ」
「アーモンドの香り・・・・・・まさか青酸カリ?」
「多分な」
 阿崎の疑問に木内は黙って頭を垂れた。
 青酸性の毒物はは性質上、甘いアーモンドのような香りがする。テーブルにあるティーカップから、その香りがすると言う。 それは一体どういう事なのだろうか。
「じゃあ・・・・・・」
「うん」
 阿崎が深見の言いたい事を悟り、先を受けた。
「森川さんは自殺した可能性があると言う事だね。察するにその紅茶に青酸カリを溶かして飲んだ、と言う事になりそうだが。 ところで木内、君は医大に言っていたね。死因は特定できるかい?」
「ああ、まあ俺の専門は薬学だからな。解らんでもない」
 木内は森川の上に屈みこむと、閉じた瞳を開き瞳孔を調べ始めた。ふむ、と肯くと今度は口元の匂いを嗅ぐ。 残された三人はその行為を沈黙の内に見つめる。誰も口を開く者はいない。どきどきと脈打つ心音がやけに大きく響いているようで、 深見は無意識の内に胸に手を当てた。
 そうして数分の時が過ぎ、木内は神妙な顔つきで顔を上げた。
「・・・・・・やっぱり青酸だな。瞳孔が開いているし、口元から扁桃臭がする。それにしても何故・・・・・・」
 彼女は何故自殺をしたのだろうか。何故「今」で、何故「ここ」なのだろうか。
「遺書とかありませんか・・・・・・」
 深見の問いに阿崎と木内は部屋を見回した。だが遺書とみられるものは何一つ無い。 唯一の荷物であるスポーツバッグを開けてみても、あるのは着替えやら化粧品しか無かった。
「もういいでしょう。後は明日警察に行って総てを任せましょうよ!
僕はもうこれ以上こんな場所に居たくない」
 瀧澤が涙を滲ませながら堰を切ったように口火を切る。彼の精神は友人の死と言う異常な状況に於いて、 限界に達しようとしていた。
「そうね・・・・・・」
 うなだれたまま深見も同意を示した。思えば、古い友人の遺体を前に不謹慎な行為だったのではないだろうか。 そう自問すると同時にそれまでの行為を恥じた。
「そうだな。取り敢えず今日は遅いから休むとするか?」
 窓枠に寄り掛かっていた木内も、その言葉に賛同し阿崎に水を向けた。
「いや・・・・・・それはいけない」
 阿崎は三人の意に反して、この部屋から出て行く事を拒絶した。椅子に座って脚を組み、 正面を見据えるその眼は何かを確信したものだった。
「これは自殺なんかじゃない・・・・・・巧妙に仕組まれた偽装殺人だ」

*午前一時*

 総ての人間が押し黙っている。吹きすさぶ風が窓を打つその音が、辛うじて静寂を打ち払っていた。 幾分風が強くなったような気がして、深見は窓を凝視する。
「何を言ってるんだ・・・・・・? これは小説じゃないんだぞ」
 沈黙を破ったのは木内。怒りの為か、その言葉は震えている。
「そうですよ。こんな山奥、僕達以外の誰がいるんですか?」
 そう言う瀧澤を見つめ、
「いや、ここにいるのは僕達だけさ・・・・・・そして犯人も」
 再び沈黙が走る。全員の眼が阿崎に向けられる。
「じゃあ、私達の中に森川さんを殺した人がいると言うのですか?」
「残念ながらね」
 深見の気持ちを裏切るように、阿崎はその言葉を肯定した。しかし、深見にはその言葉を信じる事は出来なかった。 久しぶりに集まった友人を殺した人間がいるなどどうして信じられようか。
「じゃあ・・・・・・聞きますよ。一体誰が森川さんを殺したんですか?」
 当然の疑問である。阿崎の言葉が正しいとするならば、ここにいる三人・・・・・・当の阿崎を含めれば四人の中に、 友人を殺害し自殺に見せかけた恐るべき人間がいる事になる。
 阿崎を除いた三人は、驚愕の表情で顔を見合わせる。僅かに顔を伏せた阿崎は、その眼で確かに一人の人間を見ていた。 勿論、相手は気が付いてはいない。だが阿崎は見ていた。その顔が恐怖にこわばり、微かなうろたえを見せるのを。
「その前に、何故森川さんの死が自殺ではないか説明しよう。まずは状況を確認しよう。僕達が来たとき扉には鍵が掛かっていて、 窓も閉まっていた。そこから彼女が倒れているのが見えたんだったよね」
「そうだ。俺とお前が扉を破って入ってきたときには、彼女はもう死んでいた。そして残されたティーカップの中に 青酸性の毒物が混入されていると思われる・・・・・・まあ、これは警察が調べればすぐに解るはずだ」
「やっぱり自殺じゃないですか! 早く・・・・・・早くここを出ましょう!」
 阿崎と木内の言葉は瀧澤の言葉を証明しているようである。閉じられた密室の中での死、それは自殺を意味しているのではないのか。
「でも、ティーバッグとかお湯の中に毒を入れておけば・・・・・・」
「それはありません」
 深見が口にした可能性を阿崎は一言で否定した。
「あれは彼女自身が用意したのを僕が見ている。カップやティーバッグに細工するにしても、一人でキッチンに入った人はいないんだ。
食事の準備は深見さんと森川さんの二人だし、食事中は瀧澤と木内の二人、しかもあの時間では不可能だろう。 勿論僕がキッチンに入った時も深見さんと森川さんがいたしね。それにカップやティーバッグは誰が使うか解らないときている。 毒入りのカップが自分の所に廻ってきたりしたら眼もあてられない」
 阿崎の言葉は正鵠を射ていた。だが、それではますます自殺の線が濃厚になる。それでもまだ阿崎は他殺を主張するのだろうか。 残る三人は黙って先の言葉を待つ。
「ここで幾つかの疑問が残る。何故彼女はあんな場所、窓の側で死んでいたんだろうか? 服毒自殺なら普通椅子に座っているだろう。
それに彼女の側にカップはない。カップはテーブルの上にあったのだから。木内、青酸性の毒は遅効性なのだろうか?」
「いや、即効性の毒だと思ったが」
 急に話を振られてしどろもどろに答える。それを聞くと阿崎は満足そうに肯き先を続ける。深見と瀧澤に口を挟む余地は無かった。
「次の疑問、それは何故カップが二つあるのだろうか?」
「それはコーヒーと紅茶の両方を呑もうとしたからでしょう」
「それは無いです」
 瀧澤の言葉を否定したのは阿崎では無く、意外にも深見であった。
「だって森川さんはコーヒーを呑みませんもの。私は彼女からコーヒーは呑まないって聞いた事があります」
「と、すれば導かれる答えは一つ。彼女は誰かを待っていた。そしてこのカップとコーヒーはその来訪者の為に持ってきていたのです。 しかし残念ながら、彼女はそれを使う事無く殺されてしまった。」
「じゃ、その相手に殺された・・・・・・?」
「でもですよ、鍵はどうしたんです? 鍵はこの山荘にはありませんよ。中から閉めるしか無いじゃないですか。 コーヒーカップには毒が入っていたんでしょう?」
「一体誰だよ!」
 木内の恫喝に、
「・・・・・・君だよ」
 阿崎の眼は木内を見ていた。その言葉に瀧澤と深見も、驚愕の眼差しを木内に向ける。 当の木内も意外と言うような表情のまま硬直していた。
「俺・・・・・・俺がやったって言うのか!?」
「そう、君だ。残念ながらね」
「あ、阿崎さん。軽はずみな事を言ってはいけないですよ! 木内さんがどうやって・・・・・・」
「方法はこうだ・・・・・・木内はあらかじめ森川さんの部屋に手紙のような物を置いておいた。 まあ「夜、話がある」とでも書いてあったんだろうね。そして窓に毒を含ませた針を仕込んでおく。そして窓の外から顔を出す。 窓を開けようとして死んでしまった。これで彼女が窓の側に倒れていた理由が解る」
 淡々と語る阿崎。それに比べ木内の顔は怒りのためか紅潮している。
「ふざけるな! じゃあ、カップにある毒はどうなる? 例え俺が嘘を言った所で、警察が調べれば解る事だ。 このカップに青酸が入っているは確実なんだ」
「そうね・・・・・・それにその説明では、木内君が犯人だと言う事にはならないのではありませんか?  木内君じゃなくても、例えば私だって出来るような気がしますもの」
 深見の指摘は阿崎の説明の穴を指摘している。この説明では犯人を特定できないどころか、 この殺人方法が正しいのかさえも立証できない。
「そうだ。お前の説明は一見的を射ているようだが、全部想像の産物じゃないか。 憶測でものを言うな! 何一つ証拠が無い」
 二人に責められながらも阿崎に狼狽の色はない。それどころか余裕の笑みをうっすらと浮かべている。
「犯行方法の説明は簡単だ。さっき外に行ったとき、すでに足跡が付いていた。 それに森川さんの指先に針で刺したような傷もある。犯人を示す材料は二つ。一つは木内が薬学部で青酸に関する知識と その入手が簡単な事。二つ、用意されたコーヒーに砂糖もミルクも用意されていなかった事・・・・・・木内はブラックだったな」
「だけど、毒はいつ入れたんです。僕達が部屋に入ってきたときにはもうカップはありましたよ。 それに毒針なんて窓のどこにもありませんよ」
「そうとも、それに『証拠』はどうした? 俺が犯人だと言う証拠は!」
 いくらそれらしい説明でも証拠が無ければ、立件は出来ない。木内はその事を言っているのだ。
「証拠は・・・・・・今君が持っているのだろう? 毒は僕達がこの部屋に入って来た後に入れたんだよ 。毒針の回収も同様だ。それに木内は瀧澤にこう言っていたんだ。『瀧澤! 警察を呼べ』ってね。 普通呼ぶとしたら救急車だろう? 木内は知っていたんだ。森川さんがすでに死んでいた事をね。 勿論、後始末の時間を稼ぐために電話線はあらかじめ切っておいたんだ。身体検査をしてみれば解るはずさ、 青酸の包みと毒針、そして屑篭からは木内の手紙が見つかるだろう。部屋割りを決めたのも木内だった。 隣の部屋の方がやりやすいだろうから」
 これには木内の反論の言葉は無かった。三人の疑念の眼が木内に注がれる。深見と瀧澤はもう言葉を発する事も出来ない。 二人にはこの事態を正確に把握する事は不可能であった。二人は黙って木内の反応を見ている。
「そんな必要はない! ・・・・・・阿崎の言う通りなんだからな。そうさ、総てお前の言う通りだ。 俺は青酸や砒素、ストリキニーネを扱っている内にどうしても使いたくなった。おあつらえ向きに殺したい相手もいたしな 。あいつは俺の誘いを無視して、何かと俺と阿崎を比べやがるし・・・・・・五年間だ、五年もの間俺の心は踏みにじられてきたんだ!  それに俺の本当に殺したいのはお前だったんだ! これはその実験だったんだよ。 この殺人なんて俺にしてみれば単なる実験、ゲームなんだよ」
 木内は笑っていた。木内はよろよろと後じさると、壁に寄り掛かりずるずると座り込んだ。
「まさかお前に暴かれるとはな・・・・・・俺は結局お前に勝つ事が出来なかったと言うわけだ。 俺の人生を掛けたゲームはお前に軍配が上がったんだ。俺は・・・・・・俺は・・・・・・お前に勝ちたかった!」
 激昂した木内の手に握られたのは、阿崎の語った毒針。止める間も無くそれは左手の甲に突きたった。 眼を見開き、僅かに躯を痙攣させると頭ががくりと垂れ下がり、再び動く事は無かった。

*午前十時*

 昨日四人で登ってきた山道を、今日は三人で下る。皆、沈痛な表情を見せ黙々と脚を運んでいる。 事件を解決に導いた当の阿崎も、何の感慨も無い。あるのは深い悲しみと慙愧の念。 数年来の友人の心を理解する事の出来なかった自分に対する怒り。三人に共通するのは悲しみのみであった。
「何でこうなったんでしょうね・・・・・・」
 最後尾を進む瀧澤が重い口を開く。それは誰に語りかけたものなのだろうか。誰に、と言うより独り言に近い。 答えるものは皆無である。
「彼の中で何かが、何かが少しずつ狂ってしまったんだ」
「うん・・・・・・そうね」
 ゆっくりと二時間ほど路を進むと出口が見えた。更に十分も歩くと公衆電話がある。阿崎は受話器に手を掛けた。
「もしもし、警察ですか・・・・・・」

- 了 -

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