魂魄堂 書庫

- 小説嗜好 -


私は現在ミステリィ小説を中心に読んでいるが、余りジャンルには拘らない方である。 例えば伝奇小説も読めば、ホラーや恋愛小説だって読まないこともない。エッセイだって 読む。

ここでは取り敢えず「ミステリィ」に絞って話を進めていく方が解りやすいだろう。何故ならば、 いくら同じ「本」というカテゴリとはいえ京極夏彦と田口ランディを同列に扱うような真似は 読む方も本人にも不本意な物別れを招きかねないからだ。

・・・・・・いや、田口ランディは読んでないけど。

ではまずミステリィの定義でもしておこうか。といっても、それは所詮私が何を以てミステリィ と捉えるかに過ぎないのだが。
  1. 謎がある。
  2. 探偵(役)が居る。
  3. 犯人が居る。
  4. 事件解決への伏線がある。
  5. 私には真相を暴けない。
と簡単に分類するとこうなる。
しかし時にはこの条件が成り立たない場合でも、ミステリィとして認識する場合がある。 本来なら具体例を挙げたいところだが、それは辞めておくのが礼儀というものだろう。

1についての説明は最早不要であろう。いやあってくれ。ある意味この条件を満たせば 他の条件はどうでも良いような気もする。しかし謎があればそれで良いのか、と問われると それなりに条件を付加したくなるのが人情というものであり、それは人間としての防護策である と信じている。

つまり、
  • 「何故登場人物の名前はややこしいのだろう」
  • 「この探偵、事件に遭遇しなかったら普通に生活できるのだろうか」
  • 「そもそも犯人も廻りの人間を調査してから事件を起こせばいいのに」
などという謎が主題であったりすると、それはもうミステリィとは呼べなくなる。謎は事件と 伴にあるわけで、それを否定するような事は自らを滅ぼしかねない爆弾なのだ。喩えるなら ドラえもんの四次元ポケットに何故か入っている「地球破壊爆弾」と同義である、と 云えよう。

同じく2についても何の問題もない。謎があればそれを解体する役目が必要になる。それが 探偵(役)なのだから。もし探偵(役)が存在せず、談合や平和的な話し合いで話を進められて しまうとどうなるか。一見ミステリィにありがちな、推論談義に花を咲かせているように見えるかも 知れないが、実態はこうなる。

「誰か自首する者は居ないか?」
「ちょっと待てよ、自殺が事故かも知れないだろ」
「でも絞殺だし完全な他殺だぞ」
「でも部屋に鍵が掛かってる」
「一体どっちなんだ」
「・・・・・・面倒だし自殺にしとこう」
「異議なし」
「じゃあ鍵、開けとく」
という会話がどこぞの密室で行われていたとしてもおかしくないわけで。これがミステリィなら 今の政治経済の大半がミステリィになってしまう。これじゃ読者はもとより犯人だってやる気を 喪い、ひいてはミステリィの衰退にまで発展しかねない。

次に3だが(以下略)

・・・・・・これじゃ定義するだけで終わらないではないか。なので以下は割愛。私の定義に文句がある ならメイルをくれれば、訂正しないでもないような気もする。少なくとも心の中でそっと謝罪する事と 思われる。

ではここからが本題。
「私が好むミステリィ」とは?
良く云われるように、トリックやロジックでは判断しない。結局は「読んで面白いかどうか」だ。それじゃ 何が何やら解らないだろう。例えば森博嗣氏の名前を挙げておく。氏の人気ぶりは今更云うまでもない が、しかしその一方でミステリィとしての評価はそれ程高いものではない。氏の作品の面白さは、特異な キャラクタと文章によって支えられている部分が主だからだ。

「トリックが平凡だからつまらない」
「ネタがすぐに解ってしまってつまらない」
と云う意見もある。だがそれは余りに性急な事だとは思わないか。トリックやロジックは小説のファクタで あって小説そのものではない。それならトリック辞典を眺めていればいいだけの話であって、小説の面白さ に言及しているとは云えない。騙されるのが好きならば夢オチでも良いのか。実は幽霊の仕業でした、 でも問題はないのか。

近年、キャラクタに力を入れすぎて「キャラ萌え」なる現象が流行しつつある。私は別にそれを否定する つもりは無いが、だからといってそれのみが突出するようでも困るのだ。結局何が云いたいのかというと、 ミステリィだって小説である以上トリックやロジックにのみ評価の標準を合わせず、総合的な判断が 必要なのではないか、という事だ。だから私が求めるのは「物語」自体の面白さであり、ミステリィである とかファンタジィであるとか、そういった従来の小説の枠を越えた作品なのである。きっといつかそんな 作品に出逢える事を祈っている。


・・・・・・いや「流水大説」じゃなくて。

- 了 -

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