魂魄堂 書庫

- 絵画 -


 もうどれ位こうしているだろうか・・・・・・?
 解らない・・・・・・
 調べようにも時間を計るものなどここには無い。
 もしあったとしても、ここでは無意味だ。
 何故ならここでは時が動くことは無いからだ。
 だから、彼には「今まで」も無ければ「これから」も無い。
 あるのは「現在」だけだ・・・・・・
 だが、そんな彼も流れる時間を眺める事はできる。
 彼のいる世界の外側・・・・・・
 そこに行くのが彼の望みだった。
 そのためには彼の代わりが必要なのだ。
 そいつを探さねばならない。
 幸いにも時間だけはたっぷりある。
 ・・・・・・いや「無い」んだったか。
 彼は外を覗き込んだ・・・・・・


「う〜ん、どうしようか」
 三木はそう呟くと、再び腕を組んで鼻を鳴らした。一歩下がってそれの全体を眺める。
三木の体重を受けて床板がみしり、と不満を漏らした。
三木は今一枚の絵画の前にいた。散歩がてら通りがかった骨董品屋に惹かれ中に入ったのだ。 店は古びていてそれらしい雰囲気をかもし出している。
 店内には数多くの品が展示されていた。その大半は三木の知識には無い品で、軽く目を走らせただけで通り過ぎた。 店の奥、ともすれば見逃してしまいそうな場所に一枚の絵画を見つけ脚を留めた。
 大きさは両手を広げたくらいだろうか。芸術には詳しくはない三木だが、それだけに純粋な眼で絵画を観ることができた。 油絵のそれは一見無気味なものにみえる。三木には最初、何を描いてあるのか解らなかった。漆黒を背景に、 紫や紅で何かが描かれている。
 それは「人間」だった。人、多分男なのだろう。それが正面を見据えている。表情は・・・・・・どう表現したらいいのだろうか。 三木は頚を傾げた。怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。それでいて無表情のようでもある。
 何故この絵画が店の隅に捨て置かれているのだろうか。まるで客の眼につかないよう、売れないようにしているかのようだ。 隠していた宝物を見つけたようで、三木は内心ほくそえんだ。
「無気味な絵だ・・・・・・」
 その呟きとは裏腹に三木はこの絵に魅了されていた。時間とともにこの絵を手に入れたい衝動に駆られ、悩んでいたのである。 だが三木の心は殆ど決まっていた。
「すいません・・・・・・」
 三木は店の奥に声を掛けた。店内に入ってから誰の姿も見てはいない。絵を買おうにも、これには値札すら下がっていないのだ。
 三木の声は空しく漆黒に消えた。返事どころか物音一つしない。誰も居ないのだろうか? こういう所は老人が店番をしている。 もしかして何かあったのだろうか。
「あの・・・・・・」
 不安に駆られた三木はもう一度呼び掛けた。
「なんでしょう」
 今度は返事があった。しかも何故か三木の背後からそれは聞こえた。振り返った三木の前に、一人の女性が静謐を伴って存在している。
 意外にも女性は若く、どう見ても二十台の前半だろう。闇と見紛うばかりの艶やかな髪を腰まで伸ばしていた。それと対照的な、 透き通るほどの白い肌が闇に浮かんでいる。眉目の秀麗な顔立ちは日本人形を思わせた。
「何か御所望でしょうか・・・・・・」
 流れ出た女性の言葉は、凍てついた三木の躯を溶かすには十分なものだった。それ程迄に美しい声である。 その存在が月夜のそれであるならば、声は月光といったところだろうか。
「えっ、いや、この絵はいくらですか?」
 三木は予想しなかった事態に動揺しながらも、自分の意思を女性に伝えた。まさか、こんな場末の骨董品店に こんな美しい女性がいるとは思わなかったのだ。
「この絵に値段はありませんわ」
 店主と思われる女性は三木の問いを一言で一蹴した。やはりこの絵は売り物では無いのだろうか。
「この絵は買い手を選びます。この絵に気に入られた者にしかお売りできないのです」
 女性はそう言うと、じいっと三木の瞳を覗き込んだ。三木はその瞳の深淵に吸い込まれるような気がして、 その行動を妨げるのに躊躇した。
「・・・・・・でも、あなたは気に入られたようですわ。いいでしょう、あなたにこの絵をお譲りします」
 三木はその言葉を信じる気にはなれなかったが、女性の瞳が嘘をついているとは思えなかった。


 がちゃり、と扉の施錠が解け、闇に包まれた主の無い空間があらわになった。その主は部屋を出た時と何ら 変わらぬ姿をしている。主がいるべき場所に戻ったことで、部屋はようやく落ち着きを取り戻したようだ。
 唯一違うところがあるとすれば、主が大事そうに抱えている平たい物だろうか。主はそれを慎重に壁に立て掛けると部屋の明かりをつけた。
「すっかり遅くなってしまったな」
 三木はぼりぼりと頭を掻くと、隣の部屋に絵を運び入れた。そこにはベッドと、机に一台のコンピュータが置かれている。 三木は椅子に座り辺りを眺める。その丁度真後ろの壁が空いていた。
「ここがいい」
 早速包装を解くと壁に買ってきたばかりの絵を掛けた。それは部屋の雰囲気にぴたりと合っている。 満足そうに一つ肯くとコンピュータの電源を入れた。
 ぶぅぅぅん・・・・・・と低い音と共にディスプレイに文字が走る。手慣れた手つきでキーボードから数文字打ち込むと、 画面が切り替わり何行もの文字が表示された。
 それはワープロソフトであった。三木の職業は小説家であり、現在締め切りが目前に迫ってきている。 三木は時折、考え込みながらも比較的早い速度で文章を組み立てていった。
 三木が小説家となって2年が過ぎようとしていた。雑誌に出ていた長編小説の公募に入賞したのがきっかけだ。 入社したばかりの会社を辞職し小説家に専念している。処女作が思ったより好評で十万部を突破したために 三木の知名度はそこそこのものとなった。現在は書き下ろしの他に二、三の雑誌に連載を持っている。 今取り組んでいるのもその一つなのである。
 部屋には静寂が鬱積している。ただキーボードを叩く音のみが僅かに存在を主張していた。三木の眼はディスプレイ から片時も離れることは無い。
「さて・・・・・・休むとするか」
 三木がそう独白して机を離れたのは、それから数時間の後であった。日付は既に次の日のものと入れ代わっている。 服を着替え、戸締まりの確認をすると部屋の明かりを落としてベッドに潜り込んだ。
 頭を捻ると、ちらりと絵が視界に入る。闇に浮かぶ絵は無気味に映った が、三木は良い買い物をしたと思った。
 それから間も無く意識が暗転し・・・・・・


 ここが何処なのか解らなかった・・・・・・
 だがそんなことはどうでも良かった・・・・・・
 彼はしっかりと感じていた。
 彼が探していた者に出逢った事を。
 彼は歓喜した。
 まずは観察しなければならない。
 彼は決して焦らない。
 今まで過ごしてきた時の長さに比べれば
 これからの時間など無いに等しい。
 彼も眠ることにした・・・・・・


 プルルル・・・・・・プルルル・・・・・・
 三木は耳障りな電子音で眼が覚めた。脇にある時計を見る。既に針は十時を廻っている。三木はベッドから 飛び降りると隣の部屋で鳴っている電話の受話器を取った。
「もしもし」
「お、三木さんいましたね」
 名前を聞かずとも相手が誰なのか解る。三木の担当編集者の山崎だ。締め切りはまだ一週間以上あるはず ・・・・・・と壁に掛けてあるカレンダーに眼を走らせる。三木の想像通り、締め切りを現す赤丸は八日後に付けられている。
「どうしました?」
「頼まれていた絵画に関する資料出来たから」
 そうであった。三木は次回作の為に絵画に関する資料の収集を山崎に依頼していたのだ。 思えばあの骨董品店に立ち寄ったのも、何か絵に関する物が置いてないかと思っての事だったのだ。
「ありがとう。じゃあ、FAXでお願いします」
「OK」
 受話器を置いて暫く待つ。電子音と共にFAXから何枚もの紙が吐き出される。五枚の紙が吐き出され、 止まった。見ると何かの文献のコピーだろうか、見づらいながらも整然とした文字が並んでいる。
 最後の紙には山崎が書いたのだろう、手書きの文字が乱雑に書かれている。 そこには「締め切り遅れないようお願いします!」とだけ書かれていた。
 溜め息を吐きつつ資料を見る。そこには色々な画家の名前とモノクロながらも何点かの絵画が載っている。
 その中の一点に三木の眼が留まった。それは紛れも無い、あの作品であった。 昨日、骨董品店で二束三文で手に入れ、現在書斎の壁に掛けてあるあの作品である。
 三木は資料を持って書斎へ行く。壁に掛けてある作品と、FAX用紙にある作品とを見比べる。 全く同じだ。少なくとも三木の眼にはそう映った。
 複製品(コピー)か? それとも贋作(フェイク)なのか? どちらであったとしても三木にそれを見抜ける鑑識の見は無い。 気を取り直して説明の文章を読んだ。
 それによるとこの絵を描いたのは、水原涼一という画家らしい。この作品が代表作らしく、これ以外の絵は載っていない。 十年ほど昔にアトリエが火事になり、それに巻き込まれて亡くなったらしい。同時にアトリエにあった全作品も焼失したとある。
「じゃあ・・・・・・これは一体!」
 全文を読んで三木は頭上を振り仰いだ。そこには紛れもなく焼失した筈の作品が掛けられている。 やはり本物では無いのか・・・・・・何だか描かれている男が無気味に哄っているようで思わず眼を逸らしてしまった。


 彼は機会を得たのを感じた・・・・・・
 嬉しさの余り笑みを浮かべる。
 やっと悲願が達成されるのだ・・・・・・
 言うなれば彼の存在意義そのものであった。
 長かった・・・・・・
 彼は密かに嘆息した。
 彼は行動を開始した。


 時計の針は優に十時を過ぎている。あの絵は多分偽者なのだろう・・・・・・そうでなければあんな値で手に入るわけが無い。 三木はそう納得して仕事を始めた。
 そのせいだろうか、創作意欲が湧いた三木は正午からずっと机に向かっている。食事も忘れ一心不乱にキーを叩いている。
 かたり・・・・・・
 何処かで物音がしたような気がした。三木は一瞬、頚を傾げたが再び作業に専念した。
 ぴたり・・・・・・
 今度は気のせいではない。三木は手を置き、振り向いた。
 三木の眼に映ったものは・・・・・・
 それは「絵」であった。正確に言えば「絵であった」ものである。今はもう絵では無くなっていた。それは確かな意思を持っていた。
 かた・・・・・・かた・・・・・・絵が揺れている。それに伴い油が融解し床に滴り落ちている。
「・・・・・・と・・・・・・ぞ・・・・・・」
 三木の耳にくぐもった、聞き取れない言葉が響いた。三木は見た。絵に書かれていた男の顔が喜悦に歪んでいるのを ・・・・・・その手が平面世界を脱して立体世界に顕現しようとしているのを。
「やっと・・・・・・見つ・・・・・・ぞ」
 それの上半身は既にこちらの世界に顕れていた。眼前で起きている事は現実なのだろうか?
 三木は呆気にとられ行動する事ができなかった。
それはタールのようなどろどろしたもので出来ていた。腕を振る度に、ぽたぽたと零れ落ちる。
 その顔に三木は見覚えがあった。昼間送られてきたFAXに出ていた水原涼一その人であった。 それに気が付いたとき、絵に描かれた男は現実の者と化した。
「やっと見つけたぞ・・・・・・我に選ばれし者よ」
 それはゆっくりと三木の許に歩み寄ってくる。三木は咄嗟に机の上にあったライターを手に取った。
「消えろ!」
 震える手でライターに火をつけると、それを投げ付けた。緩慢な動きのそれにかわせる道理はなかった。
 火は見事に肩と思われる所に命中した。瞬間、火が全身に廻り焔を吹き上げた。油絵から出てきた者はやはり油で出来ていたのだろうか。 それは怯む事無く三木に向かって腕を伸ばしている。それすらも焔に包まれ、熱気が部屋を包み込んだ。
 三木の視界が真紅に染まり、全てが闇に包まれて・・・・・・


 一枚の絵がある骨董品店に運び入れられた。そこの店主は珍しい事にうら若い女性であった。 その女性はその絵を受け取ると、置く場所が決まっていたかのように、人目につかない一角に安置した。
「やっぱり戻ってきたのね・・・・・・」
 愛しい恋人を撫でるように表面を撫でる。それはある有名な画家が描いた最後の絵であると言う。 事故で亡くなった最愛の息子を描いたものだと言う。全身に火傷を負い死んだ息子、再び出逢う事を祈って描いたものだと言う。
「あの人・・・・・・魅入られてしまったのね」
 もしかしたら三木は死んだ画家の息子に似ていたのかもしれない。画家は、息子に失った肉体の代わりに あのキャンバスを与えたのかもしれない。息子はそれに応えて・・・・・・
 女性は長く美しい髪を撫でると、ゆっくりと絵画の正面に廻り込み膝を折った。そこには鈍色で描かれた笑みを浮かべる男と、 もう一人助けを求めるように腕を伸ばした男が描かれていた。
「お帰りなさい・・・・・・」

- 了 -

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