魂魄堂 書庫

- 帰り道 -


 ・・・・・・僕には彼女がわからない。
 僕はいつも彼女を見ていた。もちろん彼女は気がつかない。僕は彼女のちょっとした仕草、もしかしたら彼女自身も気がついていない癖も知っている。
 彼女はちょっとおとなしめの娘で、マジメで成績もいい。飛び抜けて美人とか、かわいいわけではなく、クラスでも目立った存在ではない。
 いつも数人の友人と一緒にいるので、話す機会はほとんどない。でも、朝学校に来るときに偶然会ったり、席が近かった時に勉強を教えてもらったり、話しているとやっぱり楽しかった。
 そんな偶然を期待しながら、いつも彼女を見ている。でも目が逢ったりすると、思わず目を逸らしてしまう。
 だけど、僕にも彼女について解らないことがある。彼女が誰が好きなのか。僕が彼女が好きなように、彼女も誰かを好きなんだろう。
 彼女と初めて逢ってから一年が過ぎた。僕と彼女は積極的に話すことは無かったが、教室での席が近かったせいもあって結構話しもした。
 しかし二年生になると、そうもいかなくなった。いわゆるクラス替えで彼女とは別々になってしまったのだ。
 そんなある日、僕が家に帰ろうとすると彼女が前を歩いていた。僕は緊張した心を静めながら彼女に話しかけた。彼女はいきなり後ろから声を掛けられたので驚いた様だったが、僕だと判ると胸を撫で下ろす真似をしてにっこりと微笑んでくれた。
 正直言って僕はどきりとした。今まで遠くから見ていた彼女の笑顔が目の前にあり、しかも、僕に向けられているのだ。

 ・・・・・・どうしたの?

 立ちすくんでいる僕に彼女が声を掛ける。ふと、我に返った僕は照れ隠しに笑ってごまかした。
 今、帰りかい? そう尋ねた僕に彼女は、

 ・・・・・・ええ。あなたも?

 それに頷いて僕は、こうして話すのも久しぶりだ、と返した。彼女はちょっと考えるように形のいい右手の人差し指をあごに当て、

 ・・・・・・そうね、学校ではほとんど話さないものね。あら、でもこっちに来ていいの? 方角違ってない?

 と、不思議そうな表情を浮かべる。
 確かに僕の家は反対方向だ。正確には反対方向にある駅から電車に乗る。だが少し遠いがこの方向にも駅がある。今日はそこの駅を利用することにしよう。
 大丈夫、今日は友達の家に寄ってから、そこの駅で帰るから、ともっともらしい嘘をついた。彼女は、ふ〜んと納得したように鼻を鳴らす。
 僕たちは駅の側まで一緒に話をして、そこで別れた。やはり名残惜しいが仕方がない。楽しそうな彼女を見られて十分満足だ。
 その日、僕は他人から見ればすこぶる御機嫌だっただろう。実際、僕は機嫌が良く夜もぐっすり眠れたのだ。
 それから僕はよく彼女と一緒に帰った。偶然逢ったこともあったが、その殆どが僕が彼女の帰る時間に合わせたからだ。彼女は僕のその行動を知ってか知らずか、何も言わずに一緒に話しながら帰ってくれる。僕は一日でこれほど楽しい時間はなかった。どんなことよりも彼女と一緒にいられるこの十数分間が楽しみだった。
 そして時が流れる。彼女とそんな放課後だけの付き合いは続き、あっというまに冬休みが目前に迫ってきていた。
 友達連中は冬休みの話で盛り上がり、日に日に浮き足立っている。だが僕はそんな気にはなれない。なんといっても彼女と逢えなくなる、そう考えるだけで憂鬱に心が沈むのは仕方ないことだ。
 冬休みの前日の放課後、つまり明日から冬休みなのである。僕はいつも通り彼女が帰る時間を見計らって教室を出る。見慣れた彼女の後ろ姿が見えたとき、僕は胸を撫で下ろすと同時に体に緊張が走った。実の所、ここ二、三日彼女と逢ってなく、したがってこうして彼女の後ろ姿を見るのもひさびさな訳である。
 やあ、久しぶり。そう声を掛けて彼女に並ぶ。おっとりと歩いている彼女にテンポを合わせる。

 ・・・・・・ほんと久しぶりね。

 彼女は僕の待ち望んでいた微笑みを浮かべる。久しぶりに見るその笑顔は今まで以上に僕を魅了する。
 明日から冬休みだね。心の声と裏腹に楽しそうな口調で言う。

 ・・・・・・待ち遠しかった? 学校に来なくていいのは楽なんだけど、あたしって計画性がないからだらけちゃいそうで。

 彼女は、ふふっ、と笑う。
 僕は、まったくだね、と相槌をうつと、冬休みなにかする予定あるの? と尋ねた。

 ・・・・・・ん? 予定なんて特にないわ。でも、どうして?

 彼女は下から僕の顔を覗き込むようにして言う。きっと僕の顔は緊張にひきつっていただろう。
 じゃあさ、年明けにでも逢わない? 僕は心にしまっておいた言葉を口にした。きっと頷いてくれる、そう願いながら。

 ・・・・・・えっ、あたしと、休み中に?

 余程驚いたのだろう。言葉が途切れ途切れになっている。さて、返答は如何に・・・・・・
 僕が緊張の面もちで答えを待っていると、彼女はちょっとうつむいて考え始めた。
 僕は彼女の答えを待って、黙っていた。
 彼女は意を決したように力強く頷くと、

 ・・・・・・ゴメン、ちょっと用事があって逢えないの。ゴメンね。

 彼女はすまなさそうに言ってうつむく。僕だってそんなに鈍感じゃないから、それ以上深くは言わない。ただ、残念だね、と一言付け加えて僕は彼女と別れた。
 僕は、がっかりしたような、それでいてさっぱりしたような面もちで家路を急いでいた。
 次の日、僕は昼近くまでぐっすりと眠っていた。前日の夜、憂さを晴らすように友達と夜遅くまで遊んでいたからだ。
 学校に行くこともなく、バイトもしていない僕は退屈だった。定期の期限はまだ残っているが、わざわざ電車に乗るのも億劫だ。
 それに・・・・・・電車に乗ってあの場所に行くと、嫌でも彼女の事を思い出してしまう。今、彼女は何をしているのだろう・・・・・・彼女は僕のことを少しでも考えてくれるだろうか・・・・・・誰か、男と逢っているのかも知れない・・・・・・と。
 僕は隣町に行くことにした。ここには僕の行きつけのゲームセンターがある。ここで遊んでいよう。そうでもしていないと、彼女のことばかり考えてしまう。
 僕は暫くいろいろと遊んで暮らした。必要が無いほど出掛け、夜遅くまで帰ってこなかった。
 冬休みも数日経ったある日、僕は思い立った。
 年賀状を書かなきゃ。僕は本来筆無精で、自分から年賀状など書くことは希だし、来た年賀状に返事を書かないこともしばしばだ。だが、今年は確実に書かなければならない相手がいた。この日、暫く忘れることが出来た彼女の事を思い出した。  僕はその夜、珍しく机に向かい年賀状を書いていた。ついでといっては悪いが、その他の友人にも出すことにした。彼女宛のは最後にして他の葉書で筆ためしをする。
 自分なりに丁寧に書いて読み返す。迷惑にならないかな・・・・・・? 友達といっても、ちょっと学校の帰りに話をする程度だし、彼女が嫌がらないといいんだけど。
 それから時が経ち、元旦を迎えた。僕はいつも通り昼少し前に起きる。居間に行くと、すでに年賀状が届いていて、家族ごとに仕分けされている。僕は自分宛のものを手に取り、部屋に戻った。
 毎年のことだが僕宛に来る年賀状は数少ない。友人が多いわけでもないし、学校でも目立たない存在だ。数少ない友人は、僕の友人だけあって皆不精者だ。
 それでも今年は少々数が多いようだ。入学して一年目だし、新しい友人が増えたからだろう。
 僕は一枚一枚目を通した。新しい友人、昔からの友人からと読み続けた。そして全ての葉書を読んだ。
 彼女からの葉書がない・・・・・・! そう、その中には彼女からの葉書は無かった。出すのが遅れたんだろうか、やっぱり市外だししょうがない。
 僕は自分に言い聞かせるように呟き、今日もまた遊びに出掛けた。
 だが、次の日になってもその次の日になっても彼女からは葉書が届かなかった。そうこうしているうちに届く葉書の数が減って、とうとう一枚も来なくなった。
 何か事情があったのだろうか・・・・・・それともやっぱり僕のことが嫌いなのだろうか・・・・・・?
 僕には解らなかった。ただ早く学校が始まることを祈った。そして・・・・・・早く彼女に逢いたかった。
 それからの数日、僕は一日中遊んで暮らした。彼女のことを忘れるためだ。それでもふと彼女のことを考えてしまう。いよいよ明日、学校が始まる。やっと彼女に逢えるのだ。彼女はどうなっているだろうか? 逢えなかったのは一月足らずの間だったのだ、そんなに変わっているはずがない。髪が少し伸びている程度だろう。
 次の日の朝、いつもなら低血圧気味の僕は機嫌が悪く憂鬱だっただろう。でも今日は違う。今日は学校なのだ。普段ならとらない食事を食べ、駅に向かう。一時間ほど列車に揺られ駅に着く。いつもなら寝ている時間も、今日は目が冴えて眠れない。
 駅を出て学校へ向かう。彼女も何処かを学校に向かって歩いているのだろうか? 僕の思考は彼女のことでいっぱいになっていた。
 あっ! 僕は自分の目を疑った。何しろ僕の目の前を彼女が通り過ぎていったのだから。さすがに僕もにわかには信じられなかった。しかし幻覚でも勘違いでもない、彼女が僕の前にいるのだ。
 おはよう、僕は緊張しながら話しかけた。彼女は心持ち伸びた前髪をカチューシャでまとめている。

 ・・・・・・あっ! 久しぶりね。どお、元気だった?

 振り返った彼女はやっぱり可愛かった。どんなに長い休みも彼女の笑顔が無いのでは意味がない。

 ・・・・・・どうかしたの?

 すぐに返事をしない僕に、彼女が小首を傾げながら尋ねる。久しぶりの彼女の声に感動している僕の胸中を知る由もなく。
 い、いやなんでもないよ。随分久しぶりな気がして。ところで年賀状、届いた? 出すのが遅かったから元旦に届いたか不安だったんだけど。僕はしまってあった疑問を口に出した。何故、僕には出してくれなかったのか。僕は彼女にどう思われているのか。彼女の返事でそれが解るような気がした。

 ・・・・・・あっ、ゴメンね。何か忙しくて誰にも返事書かなかったの。

 本当にそうなんだろうか? 思わず彼女を疑ってしまう。そんな自分が嫌だった。
 ま、いいけどさ。僕は心が広いからそんなこと気にしてないし。不安と疑問を心の底に追いやり、冗談めかして言う。

 ・・・・・・あ、そんなこと言って根に持ってるでしょう。ゴメンって、ホントに謝るからさ。

 顔の前で手を合わせ笑いながら言う。チロッと舌を出して僕の目の前を歩く彼女はを見ていると、疑心暗鬼になっていた自分が馬鹿みたいに感じられた。
 楽しい時間もここまでだった。僕たちの前に学校が見えてきたのだ。ここからは彼女に逢うこともできない。クラスが違う上に、教室のある階まで違うのだ。
 僕は教室に入り、久しぶりに逢った友人たちと馬鹿な話をして時間を潰した。はっきりいって彼女に逢えなければ学校に来た意味が無い。後は放課後を待つだけだ。
 長い苦痛の時間が去り、ようやく放課後になった。僕はいつも通り友人と話をしたりして時間を潰す。彼女が学校を出るのは授業が終わってから少し経ってからなのだ。
 僕が学校を出ると、案の定彼女が前を歩いていた。ゆっくりと近づく僕の前を一人の男が立ちふさがり、彼女に話しかける。そしてそのまま一緒に行ってしまった。
 僕はその帰り、とてつもない虚脱感に襲われ胸が苦しかった。今までにない衝撃だった。その事を考えるだけで息が詰まり、鼓動が速まるのを感じた。
 あの男は一体彼女の何なんだ・・・・・・友達? それとも彼氏なんだろうか・・・・・・ふと気が付くと僕は家に着いていて、ソファーに寝そべっていた。
 その夜、僕は寝付けなかった。彼女のこと、そして一緒にいた男の事、もう終わりなんだろうか? そう思うと知らず知らずの内に涙が頬を伝っていた。
 そうと限ったわけじゃあない。僕は声に出して呟くと、総ては彼女に聞いてみようと決心した。それでダメならしょうがない。  自分の心が固まると、いくらか気持ちが落ち着いたようだ。微睡み始めたかと思うと、すぐに眠りに落ちた。  眼を覚ますと、既に夜だった。僕は軽く夕食を摂り、風呂に入った。何故か気分が優れない。といっても体調が悪いわけではない。何故だろう・・・・・・無意識の内に独白した声が浴場に響きわたった。その声はなんとなく演技がかって、他人の言葉のような気がした。 そこでふと思いだした。彼女が男と歩いていたんだ。思い出して後悔する。嫌なことだった。確かあの男は彼女と同じクラスの・・・・・・名前は解らない。以前彼女と同じクラスの友達の所に教科書を借りに行ったとき、あの男の姿があったような気がした。
 まさか、ね。僕は自分の考える最悪の予想を振り払うように浴場を出る。躯を拭き、髪を乾かす。
 総ては明日の事だ・・・・・・
 僕の意識が再び暗転した。
 朝、僕は珍しく早くに眼が覚めた。いつもなら低血圧のせいか躯がだるいのに。朝食を摂り、自転車に乗る。天気も申し分無い。輝くばかりの朝日が僕の眼を射していた。
 それから約一時間、目的の駅を降りると僕は徐々に緊張する。ここの所毎朝そうだ。それは駅を出て、広場に至るところで最高潮に達する。
 いた!
 僕は視界の端に映った一人の女の子に焦点を絞り、ゆっくりと歩くその娘を追いかけた。普段なら気にしない信号も、今はいやに長く感じられる。信号が青になると同時に走る。人混みをかき分け、徐々に彼女に近づく。
 あと少し・・・・・・
 やあ、おはよう! 僕は荒く波打つ呼気をなるべく彼女に悟られないように押さえ言った。

 ・・・・・・あっ! おはよう。今日はあったかいね。

 彼女は僕を見上げるように頚を傾げると、軽く微笑みを浮かべた。それだけで今日という日が楽しくなりそうだ。
 うん。ちょっと風が強いけどね。僕がそう言うと、

 ・・・・・・そうね、飛ばされそうよ。

 彼女は小柄な躯を丸める。その彼女を風が襲った。風が彼女の髪を乱暴に撫でていく。彼女の短い髪がさらさらと風になびき、僕は一瞬それに見とれてしまった。

 ・・・・・・え? 髪、おかしくなってる?

 僕が黙って見ていたのを、彼女は髪が乱れたものと思ったらしい。しきりに、何、何処? と繰り返しながら両手で頭を撫でている。
 その様子を見て思わず笑ってしまった。

 ・・・・・・やだ、笑ってないで直してよ!

 恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる彼女がすごく可愛い。
 何でもないよ、ちょっと見とれてただけだから。彼女は、本当に? と訝しげな表情を浮かべ、それならいいんだけど、と僕を見た。
 眼が合うと、何となく会話が止まってしまった。暫く互いに口を開かないまま脚を進めた。車の音と雪を踏む音がいやに大きく響いていた。そうしている内に学校が見えてきた。人通りも多くなり、見知った顔もちらほらと見える。
 結局、僕は途中で彼女と別れ自分の教室に入っていった。教室の中はいつも通り騒がしかったが、僕は誰とも話す気にはなれなかった。
 僕はどちらかと言えば孤独を好む方だ。別に一人がいいというわけではないが、気の合わない奴と話すくらいなら物思いに耽っていた方がましだ。すぐに先生が来て授業が始まった。いつもなら寝てしまうこの授業だが、今日は何だか寝付けない。暇つぶしにノートを取りだしペンを走らせた。
 暇つぶしに・・・・・・? 本末転倒だ。僕は一体何しにここに来ているのだろう? 我ながら不真面目だな。彼女はどうしているのだろうか。きっと真面目に授業を受けているに違いない。あの娘は真面目だから。
 そして休み時間に寝ているのだろう。最近彼女はゲームに凝っているらしく、ここの所朝方までプレイしていると聞いた。彼女も僕と同じように余り人と話さない。友人の中には、彼女と話をしたことが無いという奴ばかりだ。たまに彼女と一緒にいるのを見られて、付き合ってるのか? と聞かれる事もある。そうだったらいいのだが。
 つまらない授業も最後の教科になり、残すところあと数分となると、僕は眠気も醒めさっさと帰り支度を始める。終わると同時に教室を出て門に向かうのだ。
 彼女は授業が終わると、教室を一番に出る。一時期バスを使っていて、その時間が授業終了後から数分だったからだ。今はバスを使わず歩いて帰っている。おかげで一緒にいられる時間が増えたのだ。
 バスを使っていた時期は、バス停で彼女と一緒にバスを待っていたものだ。雪が降るとバスが三十分も遅れたりしたが、僕はその方が嬉しかった。
 門の扉を潜ると、案の定彼女が足早に歩いている。僕は人混みの中を走って彼女に追いつく。
 やあ、今帰り? 僕は当たり前のことを聞きながら彼女の肩をぽん、と叩く。
 彼女は背後には気を配らないのだろうか。いつもそうするまで気がつかない。そしていつも躯を震わせて、

 ・・・・・・あっ! びっくりした。いつもそうやっておどかすんだから。

 振り向いた彼女の眼は、本当に驚いていたのかくるくると動いている。今日は少し寒く、彼女の頬が朱色に染まっていた。風に靡く白い息が今日の寒さを証明していた。
 僕は笑いながら彼女の横に並ぶ。いつからかこうやって一緒に歩いて帰るのが暗黙の了解となっていた。一緒に行っていいかな・・・・・・この言葉はいつしか言う必要が無くなっていた。
 そうしていつものようにたわいない、それでいて楽しい世間話に華を咲かせるのだ。
 だが僕の胸中はある事で一杯になっていた。今日こそはっきりさせよう。僕にはそんなに時間が残っているわけではないのだ。  彼女の顔を見ると、いつもと何ら変わること無い笑みを浮かべ楽しそうに話をしている。そんな彼女を見ていると、僕まで楽しくなってくる。僕はいつも駅まで一緒に行って、そこで別れている。今日もいつものように駅に着いた。
 ちょっといいかな? 僕はかなり躊躇した挙げ句彼女に言った。彼女は不思議そうな表情を見せたが、うん、と頷いてくれた。  僕たちは駅の入り口から少し離れた所にある広場に場所を移した。ここは高架の下ということもあり余り人が通らない。冬であればなおさらであった。

 ・・・・・・何かな?

 僕が何も言わないので彼女は胸にあったのであろう疑問を口に出した。僕は今までに感じたことの無いような緊張感を味わっていたのだが、彼女にそんなことは解る筈もない。
 僕と・・・・・・僕と付き合って欲しい。意を決し彼女に言った。しっかりと彼女の顔を見て。その時の僕はどんな顔をしていたのだろう。僕の中の冷静な誰かがそう思った。

 ・・・・・・・・・・・・。

 彼女は黙ったままだった。握った手を口元に当て、俯いている。僕はそれ以上何も言わずに彼女の返事を待った。
 静か過ぎる・・・・・・総てが静謐に包まれていた。聞こえているのは僕の高鳴った心臓の音だけだった。

 ・・・・・・ゴメン・・・・・・ね。

 彼女の形のいい唇から流れたその言葉は、僕の心臓を鷲掴みにした。心臓だけじゃない、呼吸までが止まってしまったようだった。
 ・・・・・・そんなこと考えたこともなかった。私が貴方の事をどう想っているのか、自分自身でもハッキリしないの。だから今は・・・・・・
 彼女は上目遣いで僕を見ながら一気に言う。その眼は僕の事を心配するように、落ち着かな気に動いている。
 僕はどんな表情をしているんだ?
 再び僕の頭の中で誰かが訪ねる。僕はそれに答えることは出来なかった。
 そう・・・・・・か。いや、迷惑をかけちゃったみたいだね。そう言った僕は以外ににも冷静だった。心の何処かでこんな事態を予想していたのだろうか。
 それじゃあ。

 ・・・・・・あ、うん。

 最後にいつものように挨拶を交わし、僕たちは別れた。僕はそれからどうしていたのだろうか。気がつくと家にいて、ベッドに横になっていた。
 振られちゃったんだな・・・・・・心が空虚になっているのが自覚できた。
 でもまあいいか。僕は反動をつけてベッドから起きあがる。モヤモヤした気持ちにけじめがついたような気がしてスッキリした。  次の日、僕はいつも通り学校へ行った。まさかあんなことで学校を休む訳もない。それに僕は自分でも驚いたことに、だいぶ落ちつきを取り戻していた。
 この日の朝は偶然の為せる業なのか、彼女と逢うことは無かった。ほっとしたような残念なような複雑な心境だった。
 僕は普段と変わらない日常を送った。ちょっと普段と違った所といえば、何故か授業に集中できたことだろうか。放課後になって、急に昨日のことが思い出された。このまま行くと彼女に出逢う可能性があったが、わざわざ時間をずらすのも嫌だった。僕はいつも通り門に向かった。何となく足どりが重いような気もしたが、僕は彼女に逢わないことを祈りつつ外に出た。
 そこで僕の脚が止まった。この人だかりの中から僕は無意識の内に彼女の姿を探し出してしまっていた。
 彼女に気づかれないようにゆっくりと歩き始める。今日は友達の家に行く予定だったので、電車の時間を気にする必要は無かった。下を向いて歩いている僕の横を、誰かが追い抜いていった。
 あの男だった。そいつはそのまま彼女の許に駆け寄り、歩みを共にしている。僕には関係ない・・・・・・そう思いながらも、僕は胸が苦しくなった。
 嫉妬しているのか・・・・・・何を考えているのか。もう彼女は僕にとって何でもない筈なのに。
 思考が錯綜する。一人悩む僕のことを知るはずもなく彼女と男は交差点を曲がった。僕はそちらに視線を向けながらも交差点を直進し、やがて彼女の姿が見えなくなった。



 あれから何日経ったのだろう。視界を真っ白に染めていた雪が融け、穏やかな陽射しは幾分暖かくなっているようだ。今だ吐く息は白く凍てつく空気は相変わらずだが、地面から顔を覗かせる新芽が、やがて来るであろう春の到来を予感させていた。
 彼女との下校時の奇妙な付き合いと別れを告げてから僕は急に忙しくなった。今年は進学も控えていてその準備のためだ。もしかしたら自分でも気がつかない内に、忙しさを求めていたのかも知れない。
 僕の意識を占めていた彼女に対する想いは僅かな時と共に薄れていった。もちろん、時として僕の心の表面に現れ僕を再び苦しめることもある。
 僕はいつも通り駅を降り、学校へ向かった。今日は終業式、つまり春休みの前日だった。今日という日を祝してか、あるいはただの偶然か、降り注ぐ陽光が一段と暖かい。
 春休み、といっても別段何かある訳じゃない。期間も短いし、これといってやらなければならないことも無かった。ゆっくり読書でもするつもりだ。
 教室へ入ると、そこはいつにも増して騒がしかった。無理もない。僕はいつものように、一人窓から外を眺めていた。眼下に多くの学生がいる。窓から入り込んでくる陽光が心地よい。微睡んだ僕の眼が一人の女の子を捉えたのは、偶然か必然か。  彼女は交差点に溜まった水たまりを避けながら渡っていた。蒼いジーンズに蒼いセーター、それに蒼い上着を重ねている。彼女が蒼を好むのを、彼女から聞いて僕は知っている。短くまとめた髪がさらさらと風になびき、それを蒼いカチューシャで押さえている。
 あれを外したらどうなるのか、とふと思った。彼女は髪を切った直後を除けばいつもあれを着けている。髪は短いのが好みらしく、男の僕より頻繁に美容院に通っていた。
 でもそんな彼女も近づいてきた成人式のために髪を伸ばすことを考えているらしい。中学生の頃までは髪を伸ばしていたと言っていたが、一体髪を伸ばすとどうなるのか。髪を結って着物を着た彼女が見てみたかった。
 ホントに見たかった・・・・・・僕はぽつりと呟いた。それは喧噪に紛れ、誰の耳に入ることもなく霧散した。
 間もなく、終業式が始まった。式は学生が終始騒ぐ中、滞り無く終了した。この後、教室で新年度の連絡や休み中の注意といった先生のご高説を聞き、昼頃には下校することが出来た。
 今日はこれから友人の家に集まる予定になっていた。まだ早い時間なので街へ繰り出すのだ。友人たちは準備のため先に帰った。家が遠い僕はあらかじめ準備を済ませていたので、これから友人の所に直接向かう。
 いつもなら人混みになっている玄関先が今日に限って閑散としている。みんなさっさと帰ったのだろう。最後まで先生と話をしていた僕を除いて、辺りに人影は無い。
 玄関を出て門にさしかかったとき、まだ校内に人がいた事を知った。それも僕のよく知っている人物だった。

 ・・・・・・随分ゆっくりしていたのね。もう、先に帰っちゃったかと思ったわ。

 彼女はそう言うと、もたれかかっていた門を離れ、僕の方に向き直った。暫くぶりに見る彼女は、あのときと些かも変わりはない。
 僕を見つめる彼女は、ほっとしたようなそれでいて何処か緊張しているようにも見えた。

 ・・・・・・どうしたの、ぼおっとして・・・・・・あ、またどっかおかしくなってる?

 そんなんじゃない、そんなんじゃ・・・・・・慌てて髪に手を当てる彼女を見ながら、僕は呆然と立ちすくんでいた。だけど、僕の前で無邪気に振る舞う彼女を見ていると、段々とおかしくなって僕は思わず笑ってしまった。

 ・・・・・・やだ、笑ってないで直してよ!

 聞き覚えのある、照れた彼女の声。あれはまだ、彼女と楽しい日々を送っていたときのことだ。
 どうしたの? 当然のように浮かんだ疑問をそのまま彼女に伝える。僕には訳が分からなかった。

 ・・・・・・ね、一緒に帰らない?

 そう言った彼女は恥ずかしいのか、ちょっと頬を朱に染めていた。そして彼女の言葉は、僕が何度も何度も彼女に言った言葉だった。

 ・・・・・・いつもそういって私を誘ってくれたよね・・・・・・嬉しかった。私、人と話すのが得意じゃないし、学校でもいつも一人だったから。だから今日は私から誘ってみたの。

 いいよ・・・・・・
 どうしようか、などと思う前に僕は返事をしていた。僕の心境は複雑なものであったが、とりあえず僕たちは歩き出した。
 楽しかったあの時に戻ったような気がして、僕の胸が高鳴った。しかし、どういう事なのだろうか。僕の疑問は膨らむばかりだ。

 ・・・・・・この間の事なんだけど・・・・・・

 僕の態度がおかしいのに気がついたのか、彼女の方からその話題に触れてきた。僕は思わず立ち止まってしまう。聞きたいような、でも聞いてしまったら総てが終わってしまうような二律背反に囚われた。

 ・・・・・・もしかしてあの事、誤解してるでしょう?

 「あの事」とは何なのだろう? 彼女の問いに答えを見つけだせず、返答に窮してしまった。

 ・・・・・・私言ったよね、「今はまだ」って。あれからずっと考えていたわ。そうしたら授業も頭に入らないし・・・・・・それで解ったの。

 彼女はそこで言葉を切り、暫くは互いに言葉を発することなく、ただ歩いていく。

 ・・・・・・何度目かな、こうやって一緒に帰るのは。楽しかったな・・・・・・あれから一緒に帰ってなかったよね? 私、一人で帰るのがあんなに寂しいなんて解らなかった。

 今度は彼女が立ち止まった。もう目の前に駅が見えている。彼女は僕を促すように駅の入り口を外れ、すぐ側の広場で脚を止めた。
 そこは僕が彼女に想いを告げた、あの広場であった。

 ・・・・・・つらかったんだから。私が自分の気持ちに気がついたときには、あなたに逢うこともできなかった。私が男の人と一緒にいるところを見られて、誤解してるんじゃないかと思って・・・・・・

 そこまで言うと彼女は俯いて肩を震わせた。僕はどうしていいのか解らず、彼女の側に歩み寄り、震える肩に手を添えた。

 ・・・・・・大丈夫。

 呟いた彼女の声は、やっぱり濡れていた。顔を上げると、はにかんだ笑みを浮かべた彼女の瞳から涙がこぼれ落ち、頬を伝った。僕は彼女の涙を綺麗だと思った。
 彼女は涙を拭うと、

 ・・・・・・ゴメンね。恥ずかしいところを見せちゃって。

 そう向き直った彼女の瞳に、もう涙は無かった。涙を流したからなのか僕を見つめる瞳が輝いているようで、僕は吸い込まれるように見つめ返していた。
 なんだ、そうだったのか。僕の・・・・・・僕の悩みは一体何だったのだろう。僕の心の底に沈み凍結していた想いが氷解した。僕はその時どんな表情をしていたのだろう。あの時は解らなかったが、今はどうだろう。結局、僕は彼女のことがわからないままだったのだ。 僕はゆっくりと頷いた。それだけで十分であった。彼女と過ごした長く短い二年間。今の僕たちに言葉は必要なかった。思えば答えは既に出ていたのかも知れなかった。彼女と出逢ったあの時に。
 二年間・・・・・・随分長かったような気がする。彼女と出逢ってからの二年間・・・・・・それは何にも換えることの出来ない、最高の時であったのだ。

 ・・・・・・これから、どうしようか?

 彼女はそっと僕の腕に自分のそれを重ね、訊ねてきた。そこから伝わる温もりが僕の心に浸透する。
 僕は彼女の息づかいを感じながらこう答えた。

 明日もまたここで・・・・・・

- 了 -

目録へ