「涼子おねーさん、ここの数式の解き方おしえて!」
一人の少女が教科書とルーズリーフ片手に部屋の扉を開けた。深見涼子は
読んでいた本から眼を上げその少女、葉桜霧華を見る。霧華は高校二年生な
がら大人びた顔立ちをしていて、時として涼子よりも大人に見える。友人の
阿崎に云わせると「涼子が子供過ぎる」となるらしいのだが。
確かにそうかもしれない。今は学校の帰りでセーラーを着てはいるものの、
背も高く、脚もすらりとして長い。細身の躯ながら豊かな胸が服を押し上げ
ているのが解る。
顔も小さく、細い瞳に薄い唇が艶やかである。白く小さな手で胸まである
さらりとした髪を撫でる仕草は同姓ながら時として見とれてしまう。
「可愛い」と「美しい」を同時に持っているんだ、と涼子は思う。
霧華は受験の年を迎えるに当たり、進路の事でしばしば涼子の許を訪ねて
いた。年齢が近いせいもあり従姉妹と云うよりも友人として、お姉さんとし
て慕ってくれている。霧華は美術が好きで美術部にも属しており、特に油絵
をよく描いている。その巧さは門外漢の涼子が見ても理解できた。繊細な筆
使いながら色を絶妙にブレンドし深みのある重厚な作風は高く評価され、展
覧会などでは幾度も入選を果たしている。
大学に進学しても油絵は続けていこうと思っているし、ゆくゆくは美術に
携わる仕事をしてみたいと常日頃から涼子に将来を語っていた。だが、霧華
の両親、特に母親である琉深は昔から教育熱心で、現在の有名私立中学を受
験したのも母が熱心に勧めたからだ。そんな母だから霧華の望みとは裏腹に
一流国立大学を受験することを既に決めつけており、資料の検討に余念が無
い。
霧華の美術は趣味としては認めているものの、あくまで趣味の範囲であり、
展覧会で入賞しようが有名画家に賞賛されようとも余り喜んではくれなかっ
た。それどころか最近は絵を描く時間を減らして受験勉強に備えたらどうか
と云う始末。美術関連の学校に進学したいという希望は聞いて貰えそうには
無かった。
父は母とは反対に典型的な仕事至上主義な為、家庭内の物事については一
切口を出そうとしない。大体家に居る時間が少ないため、逢うこと事態が無
くなってきている。父は娘が何処の学校に通っているかすら知らないし、ま
た知ろうともしなかった。
家族仲のいい涼子としては霧華が可哀想で、よくこうやって勉強をみてや
ると口実を作って連れ出しているのである。最も真面目な涼子だけにちゃん
と勉強もしているのだが、霧華は涼子の家族と一緒に居られるのがとても楽
しいようでしっかり云うことを聞いている。
今日も夕方から霧華が訪ねてくる予定になっており、どうやら霧華は学校
で宿題を出されたようだ。
「まず数式AからYを割り出して数式Bに代入して・・・・・・」
涼子は現在W大学文学部に所属しているが、それは数学が苦手なわけでは
無く文学の方が好きなだけであり、高校時代の数学の成績も常に上位を保っ
ていた。
それから一時間ほど机に向かうと涼子は席を立ち、
「この辺で休憩にしましょ。せっかく泊まりに来てくれたんだから勉強は程々
にしないと。家じゃあんまりくつろげないでしょうから」
「うん、涼子おねーさんの云うとおりで、家じゃお母さんの眼が光ってて落
ち着けないの。処でおねーさんは明日お休みなの?」
「うん、明日はお休み。友達に借りていたノートとCDを返したら用事は無
いから一緒に何処か行きましょうか?」
ポットから湯をカップに注ぎ紅茶を点てる。湯気と共に香ばしいダージリ
ンの香りが部屋に広がっていく。お茶請けのお菓子をいろいろ皿に並べると
テーブルに向かい合って腰を降ろした。
「いいの? やった! あたし欲しい服が在ったんだけど、似合うかどうか
おねーさん見てくれるかな? それから美味しいケーキ屋さん知ってるから
食べに行こ。此処のレアチーズは絶品なんだから!」
クッションを胸に抱き無邪気に喜ぶ姿を見ていると本当の妹のように感じ
る。内向的は自分とは正反対に活動的な霧華。容姿もおっとりとして少女の
ような自分とはまるで違う。涼子が友人たちにまで敬語を使うという礼儀正
しさのせいもあり、知らない人がみたら霧華の方が姉に見えるだろう。でも
そんな正反対だからこんなに仲がいいのかも知れないな。よく話しよく笑う
霧華を見ているとそう思う。
「そう云えばおねーさん、最近阿崎さんとはどうなの?」
阿崎は涼子と高校時代からの友人で、現在は同じ大学の同じ学部に在籍し
ている。普段は本ばかり読んで何を考えているか解らないような感じだが、
その頭脳は常に何かを考えており過去に多くの難題を解決している。涼子も
阿崎の事は悪く思っては居ないのだが、互いにそう云った状況に馴れていな
いせいか何となく事態は進展していない。
「やだ、何を云ってるの! 私と阿崎さんはそういう仲じゃありません。別
に阿崎さんとは普通よ。学部が同じだし、よく逢うことは逢うけど・・・・・・」
「おねーさんたら、照れちゃって。可愛いんだから」
「もう」
涼子はふん、とそっぽを向いて脹れてみせる。背けたのは自分の顔が紅く
なっているであろう事を知っているからだ。勿論霧華もそれを承知の上でく
すくすと笑みを浮かべている。
「そういう霧華ちゃんだって誰かいるんでしょう?」
「そ、そんな人いないよー」
「じゃあその指輪は、なあに?」
霧華の右手人差し指に細身のシンプルなシルバーリングがはめられていた。
「何だか大事そうにしてたの、見てたんですから」
「涼子おねーさんも、結構めざといなあ」
それから女性二人の長い談義が始まった。
それから時計の長針が一廻りと半分を超えた頃、
「もうこんな時間ね」
既に時計は十一時を廻っていた。宿題を終えてからだいぶ話し込んでいた
ようだ。見ると霧華も口を押さえて欠伸を噛み殺している。涼子自身にも睡
魔が忍び寄っていた。
んんっ、と両腕を頭の上で組んで背中を伸ばすと、
「霧華ちゃん、もう寝ましょうか。明日は出かけるから早くなるし」
「うん」
二人はパジャマに着替え、手際よく押入から布団を引っぱり出し床に敷く。
霧華が潜り込んだのを確認すると電気を消し、ベッドに入った。
「おやすみ」
「あの・・・・・・涼子おねーさん」
「なあに?」
「ん・・・・・・いや何でも無い。おやすみなさい」
───何だろう霧華ちゃんらしくないな。
そう思ったがそれ以降霧華は何も言葉を発しない。暗闇に眼が馴れたので
上体を起こし、霧華を見ると既に瞳を閉じているようだ。音を立てないよう
に横になり瞳を閉じると、すぐさま心地よい眠りに誘われた。
昇りかけた太陽の光が窓から射し込む頃に涼子は眼を醒ました。躯を起こ
し欠伸をしながら隣を見ると、まだ霧華が軽く寝息を立てて眠っている。昨
日寝る前に何を云おうとしたのかな。ふと昨夜の事が思い出される。
霧華を起こさないようにパジャマを脱ぎ、ブラを付けブラウスを着る。そ
してベッドに座り、ジーンズに脚を通す。
「おねーさん思ったより胸大きいんだね。Cカップくらい? ウェストも脚
も細いから羨ましいなあ」
「あ、起こしちゃった? ゴメンね。で・も、胸だったら霧華ちゃんだって
大きいじゃない。昨日着替える時見たんだから」
「そっかな? 実はあたしもちょっとは自慢なんだけどね」
手早く袖に腕を通すと布団を畳む。着替えをしっかり済ますと、
「時間は十分にあるから軽く朝食と摂りましょうか」
「でもおねーさんはしっかりお洒落しないといけないんじゃない?」
「あら私はすっぴんの方が可愛いんですよ」
「阿崎さんがそう云ったの?」
「・・・・・・こら」
階段を降りキッチンに行くと、既にご飯や卵焼きなどが並び食事の準備が
整っていた。味噌汁の香りが鼻腔をくすぐる。
「あら、おはよう。今呼びに行くところだったのよ」
「叔母さんおはようございます。美味しそうな御飯ですね」
「涼子はいつも少食だからいっぱい食べてね」
「戴きまーす」
食事を始めると、その言葉通り霧華はたくさん食べ御飯をおかわりしたほ
どだ。涼子は食後のコーヒーを呑みながらその様子を驚愕の眼で見ている。
「ごちそーさまでした」
霧華が箸を置いたのは涼子がコーヒーを呑み終えて少し経ってからだった。
間もなく時間が来たので、二人は準備を済ますと外に出た。今日は珍しく
昨夜の天気予報が当たり、快晴であった。容赦なく降り注ぐ太陽光線に涼子
は思わず眼をしばたかせる。
待ち合わせの場所は市立図書館であった。そこまでは徒歩でも三十分と掛
からない。談笑しながらゆっくり歩いていくことにした。
「待ち合わせの相手は阿崎さんなんでしょ?」
「よく解りましたね。そう、阿崎さんと待ち合わせているのよ」
「だあって、何のかんの云って薄いルージュを使ってたの知ってるんだから。
おねーさんがお化粧してまで待ち合わせるなんて、唯の友達じゃ無い。とく
ると相手は阿崎さんしか居ないってわけよ」
涼子を横目で見ながら得意げに推理を披露する。多感な年頃のせいか、そ
ういった話題には聡い。霧華の眼は新しいおもちゃを手に入れた子供の様に
輝いていた。
「霧華ちゃんは恋人とか居ないの? 霧華ちゃんくらいの年齢だったら居て
も可笑しくないし」
「あたし? あたしは・・・・・・居ないよ、そんな人」
そう云った霧華の表情は微笑んでいる様に見えたが、その眼は逆に沈んで
いう様に見えた。だがそれも一瞬の事で、前に向き直ったその表情は明るい
元の霧華のものであった。
涼子は口を開きかけたが、何となくタイミングを逸している内に眼前に図
書館が姿を現してしまった。
図書館はまだ時間が早いせいか、人影は疎らであった。図書に悪影響を与
える為、窓には薄いカーテンが掛けられ照明があるものの、外に比べればだ
いぶ薄暗いと云える。静寂な館内に足音と衣擦れの音、遠慮がちに咳き込む
声が聞こえてくる。
「阿崎さんは何処に居るんだろう?」
「大丈夫、阿崎さんはいつも決まった場所で本を読んでいるから」
霧華を後ろに従えて、涼子は迷いも無くフロアの隅を目指して進んで行く。
薄暗い館内の更に照明が当たりにくい場所に一人の男が座って本を読んでい
る。
涼子が後ろに立つと少し遅れて男が振り向いた。
背は高いが躯は細く華奢に見える。少し長めに伸ばした髪がさらりと揺れ
た。ピアニストの様な細く長い指が下がり気味の眼鏡を押し上げ、茫洋とし
た瞳がようやく涼子の顔を捉える。
涼子はふふ、と笑みを浮かべ、
「お待たせしました。待ちくたびれた・・・・・・とは思えませんけど」
「ええ。僕が勝手に早く来ただけだからね。涼子さんが時間に遅れるとは思っ
てませんよ・・・・・・処で後ろの娘は?」
椅子のスプリングがきりきり鳴りそうなほど背中を反らせながら霧華を見
る。霧華は阿崎の事を聞き知ってはいたものの、実際に逢うのは初めてのこ
とである。
「私の従姉妹の」
その先を受けるように、
「葉桜霧華です。昨日から涼子おねーさんの処に泊まってます」
ぺこり、と頭を垂れる。
「ああ、話は聞いてるよ。受験なんだって? 僕で良かったら教えてあげる
よ。受講料は・・・・・・ハーゲンダッツのヴァニラでどう?」
「うーん、仕方ないですね。それで手をうちましょ。ただし、宿題も手伝って
貰いますからね」
「そうと決まれば・・・・・・」
阿崎は個人用の机を後にして、六人用の机に腰を降ろした。幸い時間が早
いせいで、大人数用の机は幾つも空いていた。その向かいに涼子が座り、隣
に霧華がちょこん、と座り込んだ。
「まずはこの積分から・・・・・・」
阿崎の授業は午後二時くらいまで続いた。と云っても、その後半は上手く
乗せられた阿崎が解いてしまったのだが。涼子はそれを眺めながら、書架か
から持ってきた本を読んでいる。そして聞き耳を立てながら時々口を挟んで
いた。
「阿崎さんて理数系も強いんですね」
「涼子さん程じゃないけどね。涼子さんはどちらかと云えば理数系だと思っ
たけど?」
その言葉に本に没頭していた涼子が顔を上げる。表紙には英語でルイス・
キャロルと読める。どうやら「鏡の国のアリス」を読んでいたようだ。
「でも私は文系が好きなんです。数学で隠された答えを解きほぐすのも好き
なんですけど、あの『=』が今一つ好きになれなくて・・・・・・答えが必ず一つ
しか無い、と云うのは味気ないですし。文学の世界はその個人が感じたまま
の答えがありますから。得意と好きは『=』じゃ無いんですよ」
ふふ、と微笑む。
「それに」
続けて付け加える。
「総合なら阿崎さんの方が上だったでしょう」
「ま・・・・・・ね。それよりも、約束通り受講料を戴きに行こうか」
外では容赦なく陽光が降り注ぎ、館内の冷房で冷えきってしまった躯が心
地よく暖まる。特に涼子は酷い冷え性で先程も頻りに指先をさすっていた。
だが、それも暫くの事で、十分もすると三人とも額に汗が浮かび始めた。
駅前の大通りを通り公園を横切る。公園、と云っても滑り台とかブランコ
と云った子供が遊ぶような道具は置いていない。広場に噴水が在り、意識的
に多く配置されている緑の合間を縫うように遊歩道が創られている。そこを
通り抜け、反対方向の出入り口に店は在る。
アイスを買って再び公園に戻り、空いているベンチに腰掛けた。
食べ終わると三人は最寄りの駅に寄った。阿崎は此処で分かれ二人と反対
方向の電車に乗った。
三日後のある夕方、その日も阿崎はいつものように一冊の文庫本のページ
を繰っていた。そろそろ部屋から陽光が撤退しようとし、照明を点けようか
と思案したその時、机の上に置かれていた携帯電話が軽やかな電子音───
刑事コロンボのテーマであった───を響かせた。
携帯を取り上げ液晶ディスプレイをみると、そこには見慣れた名前、涼子
の名前が記されている。それを確認し、受話ボタンを押した。
「はい、僕ですが・・・・・・」
「あっ、阿崎さん? 今大丈夫ですか?」
「うん問題ないよ」
「良かった。今度の土曜日なんだけど、午後から霧華ちゃんの学校に遊びに
行こうと思ってるんですけど、一緒に行きませんか? 霧華ちゃんが部活で
描いた絵を見て欲しいって云ってるんですよ。折角の機会ですし、霧華ちゃ
んが阿崎さんにも来て欲しいって・・・・・・どうですか?」
霧華が通学してる学校は阿崎と涼子の母校でもある。卒業して二年になる
が、卒業してからは脚を運んではいなかった。懐かしい・・・・・・担任だった先
生は元気だろうか───郷愁感に思いを馳せた。
「久しぶりに母校を訪ねてみるのも悪くはないね。講義の方も問題ないはず
だし」
「安心しました。一人で高校生に混じるのはちょっと恥ずかしいと思ってた
んです。たった二年で一気に歳を取ったみたいで」
「それはどうかな? 前に一度中学生に間違えられて補導されかけてたのを
知ってるんだよ」
「う・・・・・・それは云わないでくださいっ」
「ごめんごめん───それじゃ土曜の十時に迎えに行くよ」
「はい、解りました。お願いいたします」
窓を開けると早朝らしい清涼感溢れる空気が入ってくる。遮光カーテンを
目一杯開けると、まだ弱々しい陽光が部屋を染める。薄いブルーのブラウス
と非対称のデザインが気に入っているタイトスカートに着替えた。珍しく髪
をアップに纏め、少し濃いルージュを引いた。
───久しぶりに恩師に逢うんだから、きちんとしないと。
言い訳じみた独白に涼子は自分の本心を紛らわす。
総ての準備を整え、時計を見ると予定の時間まで十五分。だけど涼子は阿
崎との長い付き合いを経て知っている。阿崎が必ず約束の十分前には現れる
事を。つまり阿崎が来るまでの猶予は五分となる。
手回り品をバッグに詰め、ピアスを装着し終わるのを見計らったかのよう
にチャイムが鳴る。
扉を開けると、上下伴に黒いジャケットとスラックスを着た阿崎が予想通
り立っていた。
「おはよう。ちょっと早かったかな?」
「大丈夫ですよ。阿崎さんの行動はちゃんと把握してますから」
「今日は、また、随分と華やかだね・・・・・・うん、これなら中学生には見えな
いよ」
「・・・・・・まだ云いますか、それを」
「さ、行こうか」
「はい」
涼子の家から霧華の居る学校まではゆっくり歩いて三十分弱と云った処に
在る。涼子は在学中幾度と無く通った通学路に懐かしみを覚えつつ歩いてい
く。それでも変化が無い訳では無い。当時は小さな商店だったのが今では大
手チェーンのコンビニエンスストアになっていたり、空き地だった地所に家
が建っていたり。だが、今と昔で最も違うのは隣を阿崎が悠然と歩いている
事だろう。それとなく歩幅を合わせてくれる気配りが嬉しかった。
「霧華ちゃんが描いた絵ってどんなのなんだい?」
「いえ、私もまだ見た事は無いんですよ。来月開かれる展覧会の為に描き上
げた新作って云ってました」
「それは素晴らしいだろうな。彼女は高校生にして既に個展の話が来ている
らしいから」
「そうなんですか?」
「あれ、聞いてないの? ま、まだ確定した訳じゃないし、本人にやる気が
あるかどうかは解らないか」
「そうですね。この間泊まりに来たときにも、何だか悩みがあるようで思い
詰めていたように見えましたから。きっと逡巡しているんでしょうね。ご両
親にも反対されているそうですから」
「できれば、本人のやりたいように出来ると良いんだけどね」
「ええ・・・・・・そうですね」
やがて正面に見慣れた正門が見えてきた。今日は土曜日、休日という事も
あって登校している生徒は少ない。すれ違う制服姿の生徒を見て阿崎は懐か
しいね、と呟いた。
二人はまず職員専用の入口から中に入る事にした。
その日伏真隆二は悩んでいた。目下恋人である───はずの霧華に元気が
無いのは暫く前から気が付いていた。当初は個展を間近に控えてプレッシャ
を感じているのだと思っていたが、存外そうでは無いらしい事にも。
それでなくとも、ここ最近伏真自身が陸上競技会を控えていて、監督に期
待される身として多忙な日々を送っていた為にあまり逢って話す時間も取れ
ていない。今日は夕方から時間を創って逢うつもりだった。向こうも絵は大
体完成していて、今日の午後から親戚の人に見せるつもりだと聞いている。
「あれ・・・・・・?」
監督に科せられた五十メートルダッシュ十本を終え、噴き出る汗をタオル
で拭いつつベンチに置いてあるスポーツ飲料水のボトルに手を伸ばした時だっ
た。旧校舎の出入口に制服姿の霧華の姿を見たような気がした。手には何や
ら篭のようなものを下げており、どうやら部屋で飼っているカナリヤのよう
にも見えた。声を掛けようかと思ったが、躊躇している間に彼女の姿は旧校
舎内へと吸い込まれていった。
霧華が美術準備室の扉を開けると、薄暗い中、小さな窓から差し込む陽光
を背にして、一枚の大きなカンバスが立てかけられていた。カンバスは優に
二十号はあるだろうか。この部に於いてそんな大きな号数の絵を描いている
人間は一人しか居ない。霧華の先輩で部長でもある藤澤慶悟だ。
「これが先輩が今描いている絵なんだ・・・・・・」
巨大なカンバスには木炭によって風景画が刻まれている。何処かの草原だ
ろうか、風になびく草花と背の高い常緑樹。そして空には霞に溶け込むよう
に山がみえる。そして眼を引くのが太陽と月が同時に天空にある事だ。
霧華の傍らに置かれたパレットには鮮やかな紅が調合されていた。それは
見ようによっては夕方の太陽にも見えるし、早朝のものにも見えそうだった。
とてもカンバスに映えそうだ、と霧華は思う。
霧華がパレットを持ち上げると、支えを喪った絵筆が転がり床に落下する。
床に鮮やかな紅の点が描かれたが、どうせこの準備室や教室の床は長年積み
重なった絵の具で汚れている。霧華も藤澤もそんな事に頓着はしない。
「良かった・・・・・・さあて、あたしも描き始めようかな」
美術準備室の鍵を外し、藤澤が美術教室に繋がる扉を開けると、そこには
後輩の門倉が一人座って粘土をこねくり回していた。扉を開けた音に気が付
いたのか、粘土を捏ねる手を休め、
「あ、藤澤先輩。おはようございます。ずっと奥に居たんですか?」
「期限が近いからね。さっきまでは葉桜君も来てたけど、彼女も追い込みの
時期だからな」
藤澤が歩くと、板張りの床がこつこつと音を立てる。旧校舎は古いせいか
その大半が板張りになっていて、歩く度に音を立てるのが生徒たちから不評
の声が挙がってる。だが藤澤はこうした風情を感じさせるこの美術教室が好
きだった。冬場は暖房が無いため、石油ストーブで暖をとるのだが、それが
またノスタルジィを想起させるのだ。
教室の片隅に立てかけてある台車を床に置き、畳まれていた取っ手を引き
上げる。
「先輩、もう色入ったんすか?」
藤澤が手がけているような号数になると、絵の移動も一人では難しくなっ
てくる。そういうときにはこの台車を使う事になっていた。
「ちょっとだけな。今朝になってやっと先生から着色の許可が出たんだ。気
になる色ができたんでちょっと載せてみて、乾かして様子を見ようと思う」
準備室に台車を入れて数分後、カンバスを立てかけた台車が戻ってきた。
その一部には紅色の色が塗られている。まだ乾いていない為、油の匂いが部
屋に敷衍していく。
美術教室には他の教室と同じような窓の他に、床に近い処にも高さ三十セ
ンチくらいの窓が並んでいる。藤澤は一番左の窓を開け換気を行う。突風が
入り込まないように、開けた窓の前にカンバスを載せた台車を停めた。
「・・・・・・これで良し、と」
練習を早めに切り上げ隆二は屋上へと向かう。屋上といっても新校舎のそ
れはいろいろ機会が置いてあったりして狭く誰も上がろうとする生徒は居な
い。その点、旧校舎のそれは余計な機材などが無くて広々している上に、木々
が青々と茂っていて環境も良いときている。
廊下を軋ませながら歩いていると、屋上へと続く階段の傍の教室から物音
が聞こえてきた。
───階段に一番近いのは美術室だったはず。
聞くとはなしに耳をそばだてると、どうやら男が粘土を取りだし叩き始め
たようだ。期待していた相手の声では無かったのでそのまま通り過ぎた。
───もう、来ているだろうか。
屋上へと続く階段は更に軋む。
屋上に上がり涼しい風を全身に受け、日差しに眼を細める。此処には視界
を遮蔽する物は無い。一目で待ち合わせた相手が来ていない事を悟った。腕
時計で時間を確認すると、予定の時刻の五分前を指し示している。
さわさわとなる葉擦れに惹かれるようにL字型になっている屋上の端に躯
を寄せる。柵に腕を持たせかけると、碧の薫りが鼻腔を擽る。どこからか小
鳥の囀りが聞こえ、燦々と照りつける陽光が心地良い。
テストも終了した土曜の午後に学校に残っている者は少ない。隆二は柵か
ら貌を出し地面を眺める。葉に遮られてほとんど真下くらいにしか視界が開
けていないが、辺りには誰も居ないように見える。尤もこの旧校舎付近は半
分森に囲まれているようなもので、平素から薄暗く敢えて脚を踏み入れよう
とする生徒は少数だ。
そのまま重ねた両腕に頭を横たえ眼を閉じる。風が髪を嬲り腕を擽るが気
にしない。風と葉擦れと小鳥の囀りとが渾然一体となり、思わず意識が茫洋
としてくる。
───来たら、起こしてくれるよな。
「それでは失礼します」
入校許可を貰うために尋ねた職員室で、偶然二人の担任と逢う事が出来た。
元担任も先だって行われたテストの補習を終えた処で時間を持て余していた
ので阿崎たちにお茶を振る舞い懐かしい日々を語り始めた。
短い間だったがとても有意義な時間を過ごしたと阿崎は思う。当時は生徒
の視点でしか物を見る事が出来なかった為に、多くの事象を見過ごしていた
のだと今更ながらに知らされた。
あれから少しは成長したのだろうか・・・・・・最近の阿崎はそんな思いに耽る
事も少なくない。テストの成績さえ良ければそれで満足だったあの頃。まさ
かこんなにも複雑な人生を辿るとは終ぞ思わなかった。
「時間、大丈夫だよね」
「ええと・・・・・・約束は一時三十分、美術教室ですから大丈夫そうですね」
旧校舎は新校舎と渡り廊下で繋がっているが、実は直接外を廻っていった
方が早い。昔も、そして多分今も殆どの生徒は上履きを片手に校庭を突っ切っ
ているのではないだろうか。この時の二人も懐かしい思いに囚われて、と云
うより当然の行動であった。
「変わってませんね、この旧校舎」
「僕たちが卒業してまだ数年だからね。この旧校舎は僕たちが入学するずっ
と以前からこのままなんだろうな」
ゆっくりと脚を運びながら旧校舎を見上げる。古びてくすんだ外壁や蜘蛛
の巣のような亀裂も記憶のままだ。雄大すぎる時の流れは人間にとっては悠
久のそれに等しい。時が止まっているようだ。
「私たちの廻りだけが早く過ぎ去っているみたいです」
阿崎も同様の感覚を覚えたのか、そうだね、と相槌を打つ。
旧校舎にはいわゆる教室が存在しない。美術室や音楽室と云ったような特
殊教室だけが存在している。それ故、普段は人通りも少なく、新校舎と比べ、
静寂や深閑と云った表現が似合っている。敷地の端に位置している為か、草
木が豊潤に存在し、風に運ばれる薫りは涼しげだ。
二人が旧校舎の玄関に到着しようとした刹那、二人は何処かで金属物が落
下したような音を聞いた。音からするとかなり大きい物のようだ。だが質量
はさほどでは無いようにも聞こえる。
「阿崎さん、今のは・・・・・・?」
聞こえてきたのは玄関の左側面からだったような気がする。二人がその方
向に振り向くと、先程のささやかな風とは違う裂帛の風が涼子の髪を巻き上
げ、砂煙を誘発した。目を瞑り両腕で貌を覆う。
阿崎はこの時、何か禍々しい存在を感じた、と後述する。
「・・・・・・行ってみよう!」
服に付着した砂埃を払い、脚を運ぶ。そこには木々が幾本も茂っていて玄
関前と比べると薄暗かった。ざわざわと聞こえる葉擦れが何事か囁いている
ようであり、ひんやりとした空気が異空間への変貌を告げているような感覚。
───これじゃまるで・・・・・・パラダイムシフトだ。
何か起きた訳でもないのに、この感覚はなんなのだろう。去来する不快感
に阿崎は胸を抑えた。激しい動悸に徐々に冷静さを取り戻しつつあるのを感
じる。
「向こうに何か金網のようなものが───阿崎さんっ! あの、木の向こう
に見えるの。あれって・・・・・・」
涼子が視たもの───
旧校舎と樹木の間で無惨にひしゃげ、原型を喪った鳥籠。
そして───
樹木の影から見える白い存在。
それは紛れもなく、
人間の、
腕。
阿崎が視たもの───
仰向けに倒れ微動だにしない存在。
風にはためく制服のスカート。
太腿まで顕わになった白い脚。
土に汚れた白い上履きは、底が紅く染まり。
涼子には軽く握られた指に生命を感じ取る事は出来なかった。掌を上に向
け虚空を納めた手は恐怖の象徴にも思える。
その指に見える細いリング。
涼子の脳裏にあるビジョンが投影される。
過去に遭遇した友人の死。
その時の友人の手のイメージと眼前のそれとが融合していく。
現実と非現実の境界が互いの領域を侵し───
涼子の意識が総てを拒んで。
「・・・・・・落ち着きましたか?」
涼子は阿崎の差し出した烏龍茶を受け取ると僅かに口唇を濡らす。冷却さ
れた烏龍茶が、ともすれば混濁へと舞い戻りそうな意識をしっかりと捕まえ
てくれた。
「はい・・・・・・ありがとうございます」
二人が居るのは保健室。涼子はベッド、阿崎は粗末な丸い木の椅子。後で
聞いた事だが、阿崎が倒れた涼子を一人抱えて保健室まで運んでくれたのだ
という。それを聞いて嬉しいのと恥ずかしいのとで満足に感謝の言葉を述べ
る事が出来なかった。阿崎はそれをまだ涼子が落ち着いていないのだと早合
点し烏龍茶を買ってきた。
その後、保健室いた保険医が警察に通報し、現在現場検証を行うと伴に涼
子の回復を待って事情聴取を行おうとしていた。
「阿崎さん。それで・・・・・・」
掌で包み込んだ紙コップの冷たさを感じながら涼子がぽつり、と漏らす。
疑問を口にしてはいるが、答えを期待してはいないようだ。溜息を押し止め
る為に冷たい液体を口蓋に注ぎ入れた。
「残念だけど・・・・・・あれはやっぱり霧華ちゃんだった。高所からの転落死だっ
た、と警察は云ってたよ」
「阿崎さんはもう警察に・・・・・・?」
「うん、さっき事情聴取された。僕だけじゃなく、あの時旧校舎に居た人は
全員同じだと思う。涼子さんも、意識が戻って落ち着き次第話を聞きたいと
云ってた」
阿崎が二度目に出逢った霧華は既にその生命の灯火を吹き消した後だった。
明るく爛漫で、可愛さと美しさを微妙に持ち合わせていた少女の姿を見る事
は無い。そして涼子にしてみれば、再度訪れた友人の死。
「どんな事を、訊かれたんですか?」
「本当は云っちゃ駄目なんだろうけど・・・・・・あの直前に誰か不審な人物を見
ては居ないか、とか何か物音を聞かなかったか、とか後は霧華ちゃんとどう
いう関係で、どうしてあの場所に居たのか。ざっとそんな処。こっちは霧華
ちゃんが墜死した事くらいしか教えて貰えなかったよ」
「そう、ですか・・・・・・」
俯いた涼子の耳に扉を開く音が聞こえ、
「意識が戻ったようですね。気分はどうですか?」
入ってきたのはダークグレイのスーツをきっちり着こなした壮年の男だ。
まだ若そうだがその物腰は落ち着いている。刑事である事は間違いないよう
に思える。
「はい、だいぶ楽になりました」
涼子が答えると、男は懐から一枚の名刺を見せてくれた。そこには刑事で
ある証拠が並べられ「警部」という肩書きが記されている。何故か名前の部
分は指で隠して見せてくれなかった。
───キャリア組、か。
阿崎は眼前のこの男が若くして警部である事から推論する。普段現場に出
入りしないせいでスーツは小綺麗だし、靴がしっかりと光沢を放っている。
この男から事件に対する緊張感を感じる事は出来なかった。
───と、すると。
警察側から見てこの騒動は大して事件だと捉えられていない、と云う事に
他ならない。本庁からのやっかいな預かり者であるキャリアが現場に出張っ
ているという事は、これが殺人事件の捜査でない良い証左だろう。自殺か事
故。簡単な検分と事情聴取だけで良い。これが殺人であるならば、地元警察
の刑事がこの男を現場の責任者になどする筈がないからだ。
そんな事をつらつらと考えている内に事情聴取が終わってた。聞くとは無
しに聞いていると、質問内容は阿崎と同じで「いつこの学校に来たのか」
「ずっと二人でいたのか」「来た目的は」「霧華との関係は」などと形式的
なもののようだ。その口振りからすると、警察は自殺の線で動いているよう
だ。
「では二人とも図書室まで来て貰います。無くなった葉桜さんの足取りを追
うために関係者の話を聞く処でして」
図書室へ入ると、特有の薫りが阿崎の鼻をつく。廻りの情景は阿崎が足繁
く通った頃と変わっていないように見えた。入って正面の大人数用のテーブ
ルに数人座っている。刑事に促されるままに二人は入口に近い席に腰を降ろ
す。
座っているのは阿崎たちを除いて五人。その内の二人は一緒に入ってきた
警部と、彼よりわずかに若いと思われる刑事。残りの三人の内二人は学生服
を、残りの一人はジャージ姿の少年たちだ。
「簡単に紹介しようか。私から見て左の端から順に、伏真隆二君。葉桜さん
と同じクラスで今日は陸上部の練習に来ていたそうだ。次が藤澤慶悟君。葉
桜さんと同じ美術部で部長をしている」
紹介を受ける度に彼らは阿崎と涼子に軽い会釈をする。彼らにしてみれば
生徒でもない教師でもない二人が胡散臭く感じるのだろう。その視線は疑念
と困惑に満ちている。
「・・・・・・で次は門倉瞬君。美術部の一年生で葉桜さんと伏真君の後輩だそう
だ。次は阿崎玲司さん。ここの卒業生で葉桜さんの知り合いらしい。最後に
深見涼子さん。阿崎さんと同様、ここの卒業生で葉桜さんの従姉妹」
阿崎と涼子も軽く会釈した。
「まず報告いたしますが、葉桜さんは自殺、または事故のようです。死因は
墜死で頭蓋、及び頸椎に骨折が見られました。問題なのは、自殺を仄めかす
ような存在───まあ遺書ですな───が無いのと、それまでの彼女の足取
りが解らないという事です。そこで此処に居る各人の話を総合した結果をお
話しますのでそれぞれ間違いないか確認して欲しいのです。尚、死亡推定時
刻は午後十二時から十三時半の間だろうとの鑑識からの報告です」
警部の話では午前九時過ぎに伏真が霧華が鳥籠のような物を持って旧校舎
に入っていくのを見た。午前十時過ぎに美術室へやってきた藤澤は準備室に
置いてある霧華のカンバスの塗料がまだ乾いていない事に気が付いた。藤澤
とほぼ同時に美術室に来た門倉が粘土造形をしていたが、彼は誰の姿も見て
いない。午後一時頃、藤澤と門倉は誰かが屋上へ上がっていき、十数分後に
また戻ってきた跫音を聞いている。それは霧華と待ち合わせていた伏真であ
り、彼は屋上には誰も居なかった、という。それから三十分ほど経ち、阿崎
と涼子が旧校舎にやってくると、鳥籠が落ちる音が聞こえ、その傍に霧華が
倒れているのを発見した。という事だった。
その後警察の調べにより屋上の柵付近から碧と黄色の模様をした一羽のカ
ナリアの亡骸を発見したが、屋上に上った伏間によれば彼が行った時にはそ
んな物は無かったと云う。まだ小さく、雛鳥であった。
「屋内で誰か葉桜さんを見た、と云う人は?・・・・・・まあ阿崎さん、深見さん
は別として」
警部の問いに誰もが首を振る。
「僕はずっと美術室の奥、準備室に居ましたから」
と藤澤。
「それにしても、どうして準備室に居たんです。門倉さんみたいに美術室で
作業をしたほうが広いし明るかったのでは?」
「僕が今書いているのは二十号以上もある大きなものです。美術室は普段は
授業に使うので、最後には準備室に戻さないといけないのですが、この大き
さになると手では持てないんです」
「しかし先程確認した処では絵は美術室にありましたね?」
「ええ、今日になって先生から着色の許可出たので塗り始めたのですが、ま
だ最初なので塗った色の具合を確認する為にすぐに乾かそうと移動したので
す。色の配合さえ決まってしまえば、後は準備室だけで作業が出来るのです
が、美術室で絵の具を使うと、床や机の汚れが気になります。しかし準備室
なら多少の汚れは気にしなくて良いので、僕だけでなく葉桜さんも奥で作業
をしていたんだと思います」
「なるほど」
警部は腕を組んで何やら思案しているような表情を見せたが、どうも格好
だけのような気がする。質問も容量を得ないし、この会合にしても面倒な裏
を取る作業を省いているだけなのではないか。
「それでは今日の処はお引き取り下さって───」
「待って下さい」
刑事の言葉に口を挟んだのは阿崎だ。
「何かね?」
「ちょっと質問、というより疑問があります。僕たちは確かに鳥籠が地面に
衝突した音を聞きましたが、一緒に落ちたはずの霧華ちゃんが落ちた音には
気が付きませんでした。これはどういう事でしょう」
「君の聞き落としじゃないのかね? 金属と人間では落下音だって違う」
「あ、でも」
ここまで沈黙を保ってきた涼子が何かに弾かれたように口火を開いた。
「それは変です。普通なら先に鳥籠落とすのではありませんか? 私たちは
鳥籠の音に驚いてあそこに行ったんです。私たちが駆けつけた時にはもう霧
華ちゃんは・・・・・・倒れて、ました。それに私も人が落ちた音を聞いていませ
ん」
流石に霧華の事に言及する段になると言葉が詰まる。そういえば前に何か
悩みがあるような素振りを見せていた。どうしてそれに気が付いてやれなかっ
たのか、今更ながら悔やまれる。だからこそ、霧華の最後の行動を有耶無耶
にするわけにはいかないと涼子は決意した。
───ごめんね霧華ちゃん。
───解ってあげられなくて。
「単純に鳥籠は木の枝にでも引っかかっていたんじゃないですか?」
藤澤の言葉に、
「いえ、そもそも『鳥籠を投げ捨てる』という行為自体が不自然だとは思え
ませんか? 飼っていたカナリアを殺してまで実行する意義があったんでしょ
うか・・・・・・警部さん、カナリアの死因は?」
阿崎の問いに警部は咄嗟に答える事が出来なかった。まさか小鳥の『死因』
にまで事が及ぶとは思ってもみない。それまで黙々とメモを取っている若い
刑事に眼で合図を送る。若い刑事は、何やら呟きながらパラパラとメモを捲
り、軽い空咳をして読み上げた。
「正確な死因は解剖していないので解りませんが、持ち上げたときに首の辺
りがぐらぐらしていたのと、吐血の後から首を捻られたか地面に叩き付けら
れたか、外因性のものらしいという処までしか解っていません」
「自然死では無い、という事ですね・・・・・・それで十分です。つまり自殺であ
るなら、その直前にわざわざそんな真似をするのか。これで鳥籠から解放し
てあげた、というのなら解るのですが」
阿崎が口を閉じても誰も二の句を告げようとはしない。阿崎の疑問に合理
的な解釈を見つけられないのだろうか。警部たちに到っては全く関心が無い
かのように押し黙っている。
「つまり、阿崎さんは今回の事件は自殺ではない、と? しかし事故にして
も不自然な状況に変わりはないと思いますがね」
「警部さん・・・・・・一つお願いがあります」
「何でしょう」
「私に現場を含めたいくつかの場所に立ち入る許可をいただけませんか」
それを聞いた警部の貌に僅かに笑みが浮かんだように見えたのは、阿崎の
勘違いであっただろうか。
阿崎が警部を伴って最初に顕れたのは屋上へと通ずる階段だ。その手前に
は美術室の扉がある。扉の上部には覗き窓があるが、扉から離れて歩けば教
室内部の人間からは姿を見る事は出来ないし、逆もまた。
歩くと跫音が響く。跫音を忍ばせて階段へ向かう。何故か刑事も阿崎の顰
みに倣うが、階段に差し掛かると慎重に慎重を重ねても跫音を殺す事が出来
ない。忍び脚を諦めて屋上へと上がっていった。
屋上には誰も居ない。一応ロープで出入りを封じていたが、阿崎は構わず
ロープを跨ぐ。警部もそれに続いた。阿崎は廻りをきょろきょろと見廻し、
何もないのを確認すると柵に近寄っていく。風が鬱陶しいらしく頻りに髪を
掻き上げている。
やがて小鳥が居たであろうL字の先端に白い枠線を見つけると、その場所
から柵越しに下を覗き込んだ。そこにも人型の白線が見える。ふと、先日逢っ
た時の事を思い出す。僅かな時間だったが明るく人当たりの良い、とても愉
しい娘だった。溜息を吐いて立ち上がる。
───僕にはこんな事しかできないのか。
無力感に呵まれる。
───こんな才能、欲しくはなかった。
思わず自嘲気味に口許が歪む。
───でも、
───僕にしかできない事なら、
───もう迷う事はしない。
「そろそろ事情を訊かせてくれてもいいんじゃないですか?」
かちゃ、と金属製の音の後に擦過音。再び金属音。阿崎が振り向くと、警
部はのんびりと紫煙を燻らせている。そこからはキャリアに抱いていた高慢
なイメージは無い。さっきまでと一転、人を食ったようなぼんやりとした表
情に弛緩しきっている。
「阿崎さん、あなた殺人だと思ってるんでしょ。でも僕ら警察にはそれらし
い痕跡は見つけられなかった」
「でもさっきまでの話だとおかしい部分がいくつか出てきます」
「ほう。例えば・・・・・・?」
「まずは先程の鳥籠と殺された小鳥の問題。それにいつ霧華ちゃんが屋上に
上ったのか。そしていつ墜落したのか」
警部は一旦仕舞った煙草を取りだし阿崎に向ける。だが喫煙の習慣がない
阿崎を首を横に振った。
「鳥籠の話はさっき出たように枝に引っかかっていた可能性もありますな。
それでも小鳥が殺された理由は目下不明ですがね。葉桜さんの足取りを想像
すると、朝部室で絵を描きまだ誰も来ない内に屋上へ、って事かな。あの階
段をこっそり上るのは無理でしょう。階段の下が準備室だってんで軋み音が
はっきり聞こえるそうだ。んで飛び降りた」
ぷかあ、とでも擬音を付けたくなるような豪快な煙を吐く。
「そうすると更に矛盾が起きます。最後に屋上に上ったとされる伏真君は
飛び降りた霧華ちゃんを見てますか? 雛鳥の亡骸を見つけましたか?」
「・・・・・・いや、事情聴取だと屋上には誰も居ないし、何も見なかったと云っ
ていた。こっちも小鳥の存在が気になったのでその辺はしっかりと聞きま
したがね」
「だとすると話は変わってきます。まず浮かぶのが伏真君が霧華ちゃんを
突き落として雛鳥も手にかけた。でもそうすると鳥籠が落ちてきた時には
すでに彼は屋上にはいない訳です」
「でも、ですよ。あの鳥籠は雛鳥を運搬する目的の為の物らしく、極々小
さいのです。二十センチ四方、と云った処でしょうから、屋上からじゃな
くても容易に投げ捨てられます」
「美術室へ行きましょう」
美術室に入ると、独特の臭気に包まれた。正面奥の窓付近大きなカンバ
スが台車の上に載せられている。窓は上下に分かれている下の部分だけし
か開閉せず、今は全部締まっている。これはこの部屋だけではなく、旧校
舎全体がそうなっているのだ。古くて窓枠を固定する必要があるせいなの
かもしれない。
カンバスに近寄ると、その一部が紅く彩色されその殆どが乾燥している
ようだった。これが藤澤が描いているという絵なのだろう。阿崎はそれを
一瞥してからすぐ横にある準備室へと入っていく。
準備室、と云うだけあってあらゆる物が雑多に置かれていた。床はあら
ゆる色彩に彩られて、その無秩序な空間を照らす照明も光度に乏しく、僅
かにある小さな窓からの陽光が有り難い。
暗渠を切り裂く陽光に埃が舞う。その窓際に何も載っていないイーゼル
があり、部屋の奥には先程の物より小振りのカンバスがイーゼルに載せら
れていた。それが霧華の物なのだろう。
裏側を向いているカンバスをこちらに向けると、そこには一人の女性の
姿が描かれている。柔らかなタッチで描かれた女性は柔和な微笑みを湛え
て正面を見つめていた。
阿崎にはそれが涼子である事がすぐに解る。その掲げられた繊細な指に
一羽の小鳥が留まっている。彩色されては居ないが、それはきっとあの雛
鳥なのだろう。
唯一の窓から外を眺める。窓自体は結構大きいのだが、格子によってい
くつかに分断され、その一つから頭を出すのが精一杯だ。この部屋はL字
型になっている旧校舎の突端にあり、この窓だけ向きが違う。窓から外を
見ると右手に美術室の窓があり、カンバスの裏側やひび割れた旧校舎の壁、
赤黒い汚れのような物も見える。苦労して上を見上げると、屋上の柵が僅
かに見えた。美術室の下を見るとやはりそこには白線の人型が。
首を戻して振り向く。すぐ傍に藤澤のイーゼルがあるが、阿崎が窓の前
に立っている為に影になってよく見えない。阿崎はそのまま窓に寄りかか
り眼を閉じた。
そして準備室を出ると、警部は椅子に座りだらしなく四肢を伸ばしていた。
「おう、何か解ったか? 一応なそっちの部屋も一通り調べた。凶器にな
りそうな物がごろごろしてたが、どれからも血痕は見つかってないぞ」
時間と伴に刑事としての態度を保てなくなっているのだろうか。もしこ
れが地ならあまりキャリアには向いていなさそうだ、と阿崎は思う。
「いろいろと。それで最後に遺体が地面に倒れている写真が見たいのです」
流石にそれは無理だろうか。いくら時間的に直接の関わりがないとは云
え、捜査資料、しかも遺体写真を部外者に見せる刑事が居るとも思えなかった。
「いいぜ、そら」
意に反してあっさりと承諾し、ポケットに入っていた封筒を無造作に放
る。それは奇術師のカードのように優雅に宙を滑り阿崎の前の机に着地した。
「・・・・・・いいんですか?」
「見せて欲しい、って云っておいてそれはないだろう。お前なら屍体の写
真に卒倒する事もあるまい」
呼称も『阿崎さん』から『お前』になっていた。やはりみんなの前での
態度は演技だったのか。
「不思議そうな貌をしてるな。洞察力の鋭いお前の事だ、オレがキャリア
である事は察しが付いているだろう。オレだって別にキャリアぶりたい訳
じゃあないが、今更巡査から始めるって事は不可能だ。それにこうして地
元警察に居る間はまともに捜査に参加なんてさせてくれやしない。今回み
たいに明らかに事故・自殺と解りそうな事件にやっとおざなりに指揮を取
らせて貰えるんだ。地元警察にしてみりゃ、オレなんてやっかいな預かり
ものさ。んでそこに来て、お前の態度。オレには解らない何かを解ってそ
うだ。もしかしたらこれは自殺や事故じゃ無いんじゃないかってな」
その表情は先程までの物とは違って捌けている。本人も鬱積している心
中を明かしてすっきりしたのか、妙なぎこちなさが無くなっていた。
「それにしてもこれはやりすぎじゃないんですか?」
「ふん、オレは話せる警察官なのよ。しかもオレには云ってみれば権力が
備わっている。警察のしきたりやメンツに拘るような真似はしたくもない
・・・・・・さあ、中を見ろよ」
そこまで云われると阿崎も躊躇う事は無かった。自分で云い出しておい
て矛盾しているが、余りこの警部に迷惑は掛けたくなかった。
封筒の中には数枚の写真。どれも現場を写したもので、ぐったりと倒れ
ている霧華の姿が映し出されている。想像していたより写真で見た遺体に
恐怖感や嫌悪感を感じない。まだ肌はうっすらと赤みが差しているし、表
情も眠っているようだ。余り遺体が損壊していないせいなのか、それとも
阿崎が過去に実際に屍体を見ているからなのか、それは阿崎自身にも判断
がつかなかった。
「まあ小説やドラマと違って、自殺者が必ず遺書を遺していたり靴を揃え
て置いたりって事はそんなにない。特に靴を揃えておくなんて滅多にない
から、そんな事に出逢ったら逆に疑ってしまう。この娘だって多少汚れて
はいるが靴はきっちり履いている。そんなもんだ」
倒れている霧華。
乱れた制服。
汚れた上履き。
「どうもありがとうございました」
写真を封筒に戻し、返却する。
「何か・・・・・・解ったか」
「ええ、図書室に戻りましょう」
図書室では緊張の時間が流れていたのだろう。阿崎たちが扉を開けると
一斉に縋るような視線に晒された。生徒たちの疑心に満ちた視線。若い刑
事の困惑の視線、涼子の憂いを含んだ視線。
二人が席に着くと、警部は演技混じりの態度に戻り、
「今から阿崎さんがいくつか質問をするので、我々に話すのと同じように
話して欲しい」
それだけ云うと阿崎に目配せして腕を組んだ。
「まず確認しておきますが、これは事故でも、ましてや自殺などではあり
ません。これは殺人事件なのです───」
阿崎の言葉にみな表情を凍り付かせる。泰然としているのはあの警部だ
けで、傍らの若い刑事も腰を浮かせかけたが、警部の一睨みで大人しく座
り直した。だがその眼は暗に、問題が起きたらあなたの責任だ、と云って
いた。
「阿崎さん、霧華ちゃんは、本当に殺された、の・・・・・・?」
涼子の表情は翳り、唇が震えている。無理もない、と阿崎は思う。自分
だってともすれば叫び出したくなる。それ程親しくないとはいえ、知己の
死、それも殺人になど慣れるはずもない。
「残念ながら、ね───さていきなり犯人を名指したとしても疑問が残る
でしょう。それに私の推理が間違っている可能性も残っています。だから
結論は少々待って下さい」
誰も阿崎の言葉に異論を挟もうとはしない。沈黙を許諾と受け止め、
「ではまず、彼女が自殺や事故では無い事の説明をします。死亡推定時刻
は正午から一時間強の幅がありますが、美術室に居た二人はそれ以前から
部屋に詰めていて階段を往復する跫音を聞いています。それが伏真君です。
という事は、彼女は美術部の二人が来る前に屋上に上ったと考えられます
が、その一方、伏真君は屋上に彼女の姿は無かったと云っています。伏真
君、それからどうしました?」
「は、はい。屋上で十分程過ごしてから降りました」
「君は霧華ちゃんの恋人?」
「一応・・・・・・そうです。今日も屋上であの時間に待ち合わせていました」
「それ以降、誰も屋上に上った人間は居ない・・・・・・これに間違いはありま
せんか、藤澤君、門倉君」
門倉は貌を伏せたまま、
「僕は入口の近くの席で、扉に向かうように座っていました。それに扉は
少し開いていたので誰か通れば解ったと思います・・・・・・」
消え入るような門倉に続き、
「僕はずっと準備室でカンバスに向かっていたら、詳しくは解らない。で
も階段を上るときの軋みはそれだけだったな」
「君はずっとカンバスの前に居た?」
「作業を中断したのは昼過ぎになってからかな。休憩を兼ねて塗った色を
乾かそうとカンバスを移動させた時」
藤澤は天井を見るようにして言葉を紡ぐ。
「・・・・・・ここでおかしいのは彼女の死亡推定時刻に彼女の姿が何処にも居
ないという事です。屋上でもなく、地上でもなく。そして午後一時過ぎに
鳥籠と伴に突如顕れるのです。でももし、伏真君が嘘を吐いていたら。屋
上に行った時にちゃんと霧華ちゃんが居たとしたら」
伏真の肩が震える。
「僕は嘘を云っちゃいない・・・・・・それに鳥籠が落ちてきたのは僕が下に降
りて来てからだ」
「その通り。それでも投げ捨てた鳥籠が偶然枝に引っかかって時差をもた
らしたという可能性もありますが、失敗すれば大きな音を立てるだけ。ま
ずその選択は無いでしょう。ではこういう方法はどうでしょう。彼が鳥籠
を投げ捨てたのは屋上からでは無かった───喩えばその下の階、は美術
室でしたね・・・・・・どこか別の階からだったとするとこの問題は解決します。
何喰わぬ貌で霧華ちゃんを墜死させ、屋上には行ったが誰もみなかった。
確かに筋は通るでしょう。しかしその行いが彼にどんな利益をもたらすの
でしょうか。伏真君が誰かの監視下に置かれている状況で、その相手に気
づかれないように鳥籠を投げ捨てられれば話は別ですが、彼はその時何処
に居たのでしょうか?」
最後の問いは警部に向けられていた。
「ん・・・・・・あーっと、確かグラウンドに居たのが職員室の教師に目撃され
てたぞ」
不意の事で思わず地の態度が出てしまう。
「教師もずっと彼を見ていたわけではないでしょうから、アリバイにはな
らないと思いますが、逆に云うとアリバイのない彼がそんな小細工をする
必要は無いのです。しかし今僕が云った条件に当てはまる人が居ます。そ
れにその人の行動や言質にいくつか矛盾が見られるのです」
阿崎そこで言葉を止め、ゆっくりと視線を巡らす。二人の刑事は以前押
し黙って事の趨勢を見極めているようだ。唯、警部は仏頂面を装いながら
も眼許や口許にこのやりとりを愉しんでいるのが見て取れる。涼子は唇を
きゅっときつく閉ざし、心配そうな瞳で阿崎を見返す。門倉は先程から下
を向いたままだが、視線は忙しなく廻りを探っていた。藤澤はテーブルに
両肘を載せ手を組んで、じっと正面を見据えている。伏真は霧華に近しい
存在だけに肩をがっくりと落とし洟をひくつかせていた。
「藤澤君、君が犯人です───」
刹那、総ての視線が藤澤に突き刺さる。
「僕が───犯人? 僕は昼過ぎまで準備室から一歩も外に出ていない」
廻りの人間の視線が一気に突き刺さる中、藤澤は言葉を紡ぐ。
「では確認しましょう。君は準備室から一歩の外に出ていない、と云いま
した。ずっとカンバスに向かっていたんでしょう───だとすると、不自
然なのは、どうして君に霧華ちゃんが落下した事が解らなかったのか?
だって準備室は彼女の着地点の延長上にあるんですよ。だとすると落下し
た時に彼女の躯が窓からの陽光を遮るはずです。あの部屋に居てそれに気
が付かないはずがないと思いますが?」
「気が付かなかったんだから仕方が無いじゃないですか。それに僕が準備
室に居たときに彼女が落下したのなら、やはり僕は犯人ではありえない事
になるんじゃないですか?」
だが阿崎はその言葉を無視して、
「では次に・・・・・・君は霧華ちゃんとは直接逢ってないんだよね?」
「ええ。僕が来たときには誰も居ませんでした。あのですね、そこの伏真
君が屋上に誰も居ないって証言してますよね? 僕はそれ以前から彼女が
見つかるまでずっと準備室に居たんです」
藤澤のその言葉に門倉が頷く。準備室から美術室に居た門倉の眼を盗ん
で出入りするのは構造上不可能だ。彼は密室に籠もっていた事が今回尤も
疑われる事の無かった所以である。
「僕は嘘なんてついてませんよ・・・・・・」
と門倉が呟いた。
「しかし実際は門倉君が粘土で作業をしている間も、霧華ちゃんは準備室
に居たのです」
それまで沈黙を保っていた涼子が軽く小首を傾げ、
「それは辻褄が合わないと思います、けど。だって涼子ちゃんが準備室に
居たなら、いつ屋上に上ったんです? 門倉さんだって伏真さん以外の人
は誰も上ってないといってますよ。それとも跫音を忍ばせる方法でもある
んですか?」
涼子は自分がそんな発言をした事に内心驚いていた。ついさっき大切な
肉親を喪ったばかりだというのに、どうしてこんなに落ち着いていられる
のだろう。
───この短時間の間に彼女の死を受け入れた?
───でもそれと哀しみとは別のはずなのに。
「それはね、みんなが屋上に拘っているせいなんだ。屋上に誰も上った形
跡が無いので在れば、それは彼女が屋上には行かなかった事を指し示して
るんだよ」
涼子を見つめる阿崎の眼は哀しみを湛えている。涼子は阿崎の言葉を聞
いていないかのように反応を示さない。しかし物語の歯車は動き出してい
る。後は時間を刻むだけ。時間を戻す事は誰にも出来ないのだから。
阿崎は眼鏡を押し上げ、
「誰が雛鳥を殺したか───そして何の目的で。それが問題だったのです」
場が沈黙する。
刑事たちにも事の重要性が解ってきたようだ。若い刑事が警部に幾度も
視線を送っている。だが警部は敢えて無視していた。警部はこの展開を最
後まで見ているつもりだった。部外者として、観察者として。
阿崎が再び口を開く。
「もちろん雛鳥を殺したのも藤澤君です。彼は残酷な事にまだ人間として
若すぎる霧華ちゃんとカナリアという二つの雛の命を奪ったのです。そし
て雛鳥を使う事により霧華ちゃんが屋上から飛び降りたと見せかけ、鳥籠
をタイミング良く落として僕たちに霧華ちゃんを発見させる事により、自
分がずっと準備室に居たと見せかけると云う周到な計画だったのですね」
最後の言葉は藤澤に向けられていた。だが藤澤は怯んだ様子を全く見せ
ようとはしない。涼子は阿崎の推理が間違っているのでは、と少なからず
厭な予感に囚われる。
阿崎は続ける。
「そして犯人が部屋に閉じこめられる状況、いわば逆密室を創り上げた、
と云うわけです。まあ伏真君が屋上へ行ったのは計画外だったかも知れま
せんが、巧くいけば彼を犯人に仕立て上げられるという二段構えになるだ
け。どちらにしても藤澤君自身は安全なのです」
ばん、と机を叩く音がした。
藤澤が席を立つ。
「じゃあ僕が準備室から彼女を突き落としたとでも云うつもりか! 警部
さんなら知ってるでしょう? あの部屋の窓に人が入れる隙間があるかど
うか。喩え僕が彼女と準備室に居たとして、どうやって彼女を準備室から
出すのです。だいたい・・・・・・彼女が僕と一緒に居たと云う事自体が勝手な
憶測じゃあないですか」
藤澤はやや頬を紅潮させ阿崎と警部を交互に睨め付ける。その口許がひ
くひくと蠢き、眼は大きく見開かれていた。隣の門倉はそんな興奮した部
長を見るのは初めてで、怯えたような眼で藤澤を見ている。だがそれも犯
人だと名指しされれば当然の態度かもしれないな、と門倉は思う。
鼻息の荒い藤澤に睨め付けられた警部は、それでも微動だにしない。逆
にこの展開を愉しんでいた。そして阿崎に先を続けろ、と視線で促す。
「───彼女の靴ですよ。僕は最初に倒れている時に見た彼女の靴はかな
り汚れていた。まあ上履きなんてそんなものですが、僕が見たのはその靴
の底にある真新しい紅い点なんです。そして後に現場写真にもあったそれ
は、美術室に在る君のカンバスに塗られた色そのものなんじゃないですか?」
いいですか、と阿崎は右手の人差し指を立て、
「君は来たときには霧華ちゃんが居なかった。そしてあの紅い絵の具はそ
の朝に着色の許可が出て初めて創り始めたんですよね? だとするならば
霧華ちゃんの靴の底にその紅い絵の具が付くはずはないのです。何しろ君
は作業を初めてから事件が起きるまでずっと独りで準備室に居たのですか
ら───おっと何処へ行くつもりです?」
不意に藤澤が部屋を出ていこうとする。
「・・・・・・トイレですよ。僕は別に容疑者じゃないんですから、何処へ行こ
うと自由でしょう?」
「それは確かにそうですが・・・・・・まだ話は終わってませんよ。どうやって
君が霧華ちゃんを墜死させたのか、がね」
阿崎の飄々とした貌に険が走る。
「───それに、さっき僕は誤って君の絵に触ってしまったんだ。だから
ほら、僕の指にも紅い絵の具が」
そう云って右手を広げると、確かに阿崎の右手人差し指の先端にうっす
らと紅い染みが見える。それを見るや藤澤はがっくりと肩を落とし席に戻っ
た。
「霧華ちゃんの靴に付いている絵の具と、カンバスに塗られた絵の具を鑑
定すれば霧華ちゃんと藤澤君が一緒に居た事の証拠になるでしょう。それ
に旧校舎は階段が一つしか無いので、仮に霧華ちゃんが藤澤君と入れ替わ
りにすぐに部屋を出たとしても門倉君に見られずに移動するのは不可能で
す」
「あの・・・・・・それじゃ、誰が雛鳥の死骸を屋上に置いたんです? 僕が行っ
た時には屋上には何もありませんでしたよ」
伏真の問いに阿崎は、
「それは藤澤君が霧華ちゃんを突き落とす直前に、屋上に置いたんだ。準
備室の窓は確かに人が通り抜ける事は出来ないけど、腕や小振りの鳥籠を
通すことくらいは簡単だからね。雛鳥を屋上に投げる事くらいは問題無い
よ。そしてそうする事で、彼女が屋上から飛び降りた、と見せかけたんだよ」
そこまで聞いて涼子はふと思う。確かに藤澤と霧華は一緒に準備室に居
たかもしれないけど、ではどうやって霧華を突き落としたのだろう。準備
室の窓から人が出入りできないのは、阿崎自身云ったばかりではないのか。
「涼子さん、それはね」
───えっ?
涼子は無意識の内に呟いていたようだ。どうもさっきから意識が明瞭じゃ
ない気がする。視界が狭窄し、会話する声が遠くに聞こえる。貌を上げて
阿崎を見ると、その姿が魚眼レンズを通したかのように歪む。平衡感覚ま
で喪いそうになっている。椅子に座っているのか、それとも崩れ落ちつつ
あるのか───それすらも。
両肩に暖かい感触が。
気が付くと歪んだ世界が元に戻っている。
視覚が。
聴覚が。
触覚が。
額を拭うとじっとりと汗が浮かんでいた。
振り仰ぐと、いつの間にか阿崎が涼子の背後に廻り、その両手を肩に置
いている。視線が絡むと、阿崎は軽く微笑んだ。胸を圧迫していた昏くて
鈍い何かが霧散していくのが解る。涼子は阿崎に自分のそれを重ね、頷い
た。微笑むのも、無理な事では無くなっていた。
「確かに藤澤君はずっと準備室に居た、と云っている。でも事件が起きる
前にそうでは無かった事が在ったはずだよ、ねえ門倉君」
「え、そ、それは・・・・・・カンバスを美術室に運んできた時・・・・・・?」
「そう。今、門倉君が云ったように藤澤君はあのカンバスを準備室から運
び出し、そして台車に載せたまま安置した。場所はあの準備室に一番近い
窓で間違いないんだよね?」
「そうです。でも僕と会話したときには他に誰も居ませんでしたよ」
「そうだろうね。その時には霧華ちゃんはもう意識を喪っていただろうか
ら。準備室にある凶器になりそうな物からは血痕は見つかってないそうだ
けど、そんなのは該当部分を削ってヤスリでもかけておけば良い。生徒が
創った作品だから元がどんな形だったかなんて解りようがないからね。そ
して問題はカンバスを載せた台車。見たところ台の先端に引っ掛かりがあっ
て、持ち手に立てかけるような形になってますよね。とすると斜めになっ
たカンバスと持ち手の間に隙間が出来る事になります。二十号を越えるサ
イズのカンバスのサイズは長辺70センチ、短編60センチは在るはずで
す。要はカンバスの裏に隠れさえすれば良くて、台車に収まりきらなくて
も一向に構わない。そして下段の窓を開けつつ、そこから霧華ちゃんを落
としたのです。更に都合が良い事に屋上から美術室にかけて木の枝に半ば
覆われている為に、万が一外から見られても美術室から落ちたとは解らな
い事です。それもあって、どうしても屋上に雛鳥の亡骸を設置する必要が
あったんです」
僅かな沈黙の後、警部が気の抜けた拍手をした。
「いやあ、面白かった。確かにお前の云う通りだな。辻褄は合うよ。藤澤
が被害者と一緒に居たのはほぼ間違いないだろう。ま、鑑識に絵の具の鑑
定をさせなきゃならんがな。だがよ、最後に云った被害者を落とした方法っ
て証拠はあるのか?」
「これも鑑定待ちですが・・・・・・霧華ちゃんを落としたと思われる美術室の
窓、それも外側にも紅い汚れがありました。多分靴の裏が擦れたんでしょうね」
それを聞いた警部は若い刑事に、鑑識を呼べ、と云い渡し若い刑事が席
を立つ。犯人と指摘された藤澤を含め、誰も動こうとはしない。
阿崎は涼子の背中をポン、と叩く。涼子は胎内から何かがすうっと抜け
出たような感覚を覚えた。躯が脱力し、そうなってやっと泪が溢れてくる。
誰かが机を叩き付けるような音が聞こえたけど、もうどうでも良かった。
総てが終わったんだ、と思うと止め処なく湧き出る泪を拭おうともせず、
膝の上で丸めた手の甲に暖かいものが落ちていく。
静まり返った室内に、唯一涼子の嗚咽だけが。
阿崎は懐からハンカチを取り出しつつ、窓の外を一羽の燕が横切るのを
見ていた。
「おはよう阿崎さん」
涼子はいつものように、手当たり次第に書庫から引き抜いてきた本を積
んだ前で読書に耽っている阿崎の肩に手を置く。あの時、阿崎が涼子にし
てくれたように。
いつもの図書館のいつもの席に陣取る阿崎は、栞を挟んで振り返った。
「やあ、おはよう───ちょっと待ってて。今借り出してくるから」
結局積んだ本の内数冊を手にして、二人は外に出た。外は暑かった。そ
のままいつか三人で通った道筋を辿りベンチに腰を降ろす。今日はアイス
の代わりに冷えた烏龍茶だ。昼時のせいか、公園に人は疎らで喧噪にフィ
ルタをかけたかのように静かだ。
涼子を見ると、彼女は珍しく淡い碧のホルターネックのノースリーブに
前にスリットの入った非対称のデザインのデニムのミニスカートをはいて
いる。普段の膝下のフレアスカートやワンピースという装いとは、かなり
かけ離れている。
阿崎の視線に気が付くと涼子はスカートの裾を引っ張り、紅潮した貌を
俯かせたまま、
「こ、この服ね。霧華ちゃんから私にって、霧華ちゃんの部屋に置いてあっ
たらしくて。あの日、私にモデルを頼むつもりでそのお礼だってメッセー
ジが入ってたんです。それでこれを着たら最初に阿崎さんに逢いなさい、って。
だから、だから───」
霧華の事を思い出すと、どうしても泣きそうになる。
「な、泣かないでくださいよ。僕が泣かしたとは思われたくないですから
ね・・・・・・それに、その、服装とても似合っていると思います。いつもの涼
子さんも悪くないですけど、偶にはこんな風に眼の保養をさせてくれても
良いかな・・・・・・なんて、ね。それにしてもそれじゃ、どっちがお姉さんだ
か解りませんよね」
ハンカチを取り出そうとする阿崎を手で制し、貌を上げる。
「阿崎さんの・・・・・・バカ」
まだちょっと眼が紅くて、笑顔が引きつっているけど、そんな涼子をと
ても可愛いと阿崎は思う。微かに笑いあう二人の前に、一羽の燕が舞い降
り、こくん、と小首を傾げていた。
- 了 -
|