魂魄堂 書庫

- 月光は殺意の瞬き -


◎登場人物
武島 博一 ・・・・・・洋館「月鳴館」の館主(42)
高槻 清一郎 ・・・・・・天文学者(35)
久川 由比 ・・・・・・美術の専門学生(19)
司 茂美 ・・・・・・フリーのジャーナリスト(23)
木田 忠彦 ・・・・・・月鳴館の使用人(38)
三上 隆二 ・・・・・・T*銀行の支店長(48)
阿崎 玲治 ・・・・・・W*大学文学部学生(20)



「う〜ん、いい風だな」
 阿崎はクルーザーの甲板に立ち、軽い揺れに身を任せながら髪をたなびか せる。時折波の飛沫が潮の香りを運んで来るが、それすらも心地良かった。
 クルーザーは港を離れ、海原をただひたすらに疾走している。阿崎の後ろ にあった陸地が小さくなり、ついには姿を消した。周りには海しか存在しな い。空を見るとカモメが先導するように舞っている。天気は良好だ。海も穏 やかで、船に乗った事の無い阿崎は内心安堵していた。
「こんにちは」
 振り向くと一人の女性が立っていた。後ろに纏めた長い髪を風に弄ばれる ままにしている。大きな瞳が印象的だった。
「私、久川由比といいます」
 そういうと、久川は阿崎の横に並んで風を躯中に受ける。
「僕は阿崎玲治、大学生。あなたは?」
「私は専門学校で絵の勉強中。もしかしてあなたも月鳴館に?」
 その問いに阿崎はおや、という表情を返した。久川の言葉通り阿崎の目的 地は月鳴館である。
「ええ。『あなたも』という事は・・・・・・?」
「私も月鳴館に行くのよ」



 月鳴館・・・・・・無人島を買ってそこに洋館を建てた、という事で雑誌にも取 り上げられた事があった。それにここではよく星が観察できるという事で、 専用の天体望遠鏡を備えている。それもこの館の売りの一つである。
 無人島といっても結構広く、緑も豊富である。館で働いている者を除くと 島には誰もいない。館主を含んだ従業員、といってもたったの二人だが、そ の二人も館に住み込んでいる。阿崎は長期の夏期休暇に入ったので何処かに 旅行でもと選んだのがこの場所である。自然が多く残っているというのと、 電話で聞いたところ客が少なく静かに余暇を過ごせるだろうというのが主な 理由であった。
 島へは、館主のクルーザーで行き来する。個人的に買った島なので公共の 交通機関は無い。それも海が荒れている時は出航が不可能になる。この辺り の天気は不安定で変わりやすいというのがもっぱらの評判であった。



 二人の前方に島影が見えてきた。船もそちらへ向かっている。そこが月鳴 館のある島なのだろう。それを肯定するように、
「あれが月鳴館のある月見島ですよ」
 中から船を操舵している木田忠彦の声が響いた。


 船を降りると、一人の男が出迎えに来ていた。
「ようこそ、月見島へ。私が月鳴館の館主の武島です」
 白さが目立ち始めている頭髪を奇麗に後ろに撫でつけている。皺の刻まれ た顔に柔和な笑みを浮かべ、それは愛想笑いという訳では無く心からの歓迎 を表しているようだ。
 武島はついて来るようにいうと、木田に二人の荷物を持たせ近くに停めて あった車に乗り込む。木田が荷物をトランクに詰めると、阿崎と久川を車内 に導いた。
 路は舗装されていなかったが、手入れはしっかりと行われていて大して揺 れる事も無い。窓から景色を見ると、原色に彩られた花々が見事に咲いてい た。
「他に誰か来ているんですか?」
 久川の言葉に武島はちょっと間を置いて、
「ええ、他に三人ほど。皆さんもう到着なされています。もともと十人泊ま るのが精一杯ですので、そんなに人はいないんです」
 暫く進むと、洋風の建築物が現れた。ホテルというよりも、ペンションに 近いようだ。これは館主である武島の趣味だろうか。こじんまりとした三階 建ての洋館である。
 車は館の前で止まる。木田が荷物を降ろすと、入り口まで先導する。武島 は軽く会釈をすると、そのまま裏に車を廻す。どうやら裏に車庫があるよう だ。
 中に入ると廊下があり、それはすぐに左右二手に別れている。木田は迷う 事無く右に曲がった。
「左は休憩室、といいますか談話室のようなものになっているんですよ。夜 などは皆さん集まってお茶を呑んだりしてますね。その横に食堂があります。 食事は皆そこに集まって取る事になっております」
「右側は?」
 阿崎が何の気無しに尋ねる。
「ええ、こちらは私と武島さんの私室と上に上がるための階段があります」
 説明する木田の前にその階段が姿を現した。白く染められ装飾の施された 階段を昇る。二階と三階が客間になっているという。阿崎と久川は三階に案 内された。この階には三○一から三○五迄の部屋がある。阿崎は三○一に、 久川は三○三にそれぞれ案内された。
「この階には他に誰かいるんですか?」
「ええと、三○二に三上様という方がお泊まりになっております」
 そこで荷物を受け取り二人はあてがわれた部屋へと入っていった。
 部屋は清潔感のある白に統一されていた。汚れの無い壁が窓からの光を受 けて黄色に輝いている。阿崎は大きめの窓に近寄り外を見る。そこからは美 しい青陵とした海と、館を覆うように広がっている緑が見て取れた。
 窓を半分ほど開けてみる。僅かな風が心地好い。天候もいたって良好であった。
 外を散歩してみようか? 普段外に出る事が殆ど無い阿崎も、久し振りの 高揚感を覚えそう思った。
 部屋を出ると久川に出くわした。彼女は大きなデザインノートと筆記用具 を携えていた。
「あれ、阿崎君もお出掛け?」
「うん、散歩にでもと。久川さんは写生?」
「せっかく景色が奇麗なんだしね。でも私は風景画は専門じゃないからイマ イチだけど」
「出来上がったら見せて欲しいな」
「へへ、良いのが出来たらね」
 久川はそうはにかんで見せると階下へ降りていった。
 阿崎はゆっくりと後を追うように脚を進める。



「旅行なんて久しぶりだ」
 移ろう景色を眺めながら三上隆二は誰にいうとも無く呟いた。三上が立っ ているのは切り立った崖の淵。そこからは風に揺られる水面が見える。ちょ っと強い風が吹けば、崖から落ちてしまいそうなほどぎりぎりの所まで脚を 進めた。
 次は家族で来ようか・・・・・・珍しく家族の事が頭に浮かぶ。取り敢えずは仕 事を終えないと暇も創る事が出来ない。
「散歩ですかな?」
 不意の呼び掛けに振り向くと、獣路を歩いて来る男が眼に入った。男はこ んな場所だというのにきっちりとスーツを着込んで、ネクタイまで締めてい る。整えられた頭髪に何処にでもありそうな眼鏡が優等生のような印象を抱 かせる。
「ええ、高槻さんは?」
 高槻清一郎はちょっと空を仰ぎ見て、
「今夜の空模様を調べていたんです。上手くすれば今夜にも観察が出来るか もしれないので。なにしろその為にここに来ているのですからね」
 そういって遠くを見つめる。三上は高槻のそういった演技がかった言動を いまいち好きになれなかったのだが、彼にはそれが良く似合っているように も思え、気にならないようになっていた。
「そうでしたな。で、どうかね今夜は」
「何とも微妙な所ではありますが、多分いい月が顔を覗かせる事でしょう」 「それはいい。私も相伴に預らせてもらいましょうか・・・・・・では後程」
 三上は軽く会釈をすると、高槻が来た路を通って森の奥に入っていった。
「ふん・・・・・・妙な人だ。あんな人がどうしてこの島に来たんだろうな。まあ、 他人の事はとやかく言うまい」
 高槻は眼鏡を指で押し上げると、三上がしていたように崖ぎりぎりの所か ら海を眺める。
「何も無いじゃないか・・・・・・まあ私が用があるのは海では無く空ですがね」



 外に出ようと一階に降りた阿崎は、何か物音がしたような気がして廊下を まっすぐ進んで談話室を覗いてみる事にした。そこは十五畳程の広さがあり、 中央には凝った意匠の施されたテーブルが置いてある。壁際にはソファーが 用意され、宿泊客全員がゆうにくつろげるように出来ていた。その横に入り 口が見える。これは先程説明にあった食堂に通じているのだろう。
 見た所談話室に人影は無かった。更に耳をそばだてると奥、即ち食堂の方 からするようだった。ゆっくりと入り口を潜ると、仕切られた食堂の奥、シ ステムキッチンに人影が見える。姿はよく見えないが、鼻歌を歌っている声 からして若い女性のようだ。カップとスプーンがかちゃかちゃと鳴っている。 砂糖でも探していたのだろうか、すっと立ち上がると短く切りそろえられた 髪をかきあげた。
「きゃあ、びっくりするじゃないの!」
 今まで気がつかなかったのか、いつの間にか背後に立っていた阿崎に驚い てコーヒーカップを取り落としそうになる。
「す、すいません。驚かせるつもりは無かったんですよ。そうそう、あなた に見とれていた・・・・・・っていうのは駄目ですか?」
「あらあ、口が巧いわね。お礼にコーヒー淹れたげる」
「それはどうも・・・・・・僕は阿崎といいます。あなたはいつからここにお泊ま りなんですか?」
「今日来るはずのお客さんってキミの事か。よろしくねぇ、あたしは司茂美。 茂美って呼んでくれると嬉しいな。あたしは昨日から泊まってるの。結構い い所だよね、ここは」
 司茂美は笑みを浮かべながらコーヒーカップを阿崎に手渡す。受け取った コーヒーをすぐには呑まず、両手で包みこみながらじっと揺れる水面を見つ めていた。
 コーヒー・・・・・・阿崎は一年ほど前にある事件に巻き込まれた。それに於い て文字通り苦い思いをしていたのだ。それ以来どうもこのコーヒーという奴 が苦手となっていた。家でもなるべく紅茶を愛飲するようにしていた。
「呑まないの?」
「いえ、戴きます。司さんは観光ですか?」
「茂美って呼んで。まあ、仕事みたいなものね。もっとも仕事になるかどう かは終わってみないと解らないけど。あたしはフリーのジャーナリストだか ら、記事を買って貰わないといけないのよ。せいぜいいい記事を書かないと それこそただの観光になっちゃう」
「へえ、ジャーナリストですか」
 感心したような阿崎に自嘲的な笑みを浮かべ、
「ジャーナリスト、っていっても肩書きだけ。実際はフリーライターっていっ た方がいいわね。どんな記事でも書くし・・・・・・今回だってルポみたいのとは 程遠いしね。じゃあ、外を見て来るわ」
 司はカップをキッチンへ戻すと大きなバッグを抱えて外へ向かう。肩に背 負ったバッグにはカメラなんかが入っているのだろう。阿崎はそれを眺めな がら、冷めかけたコーヒーを口に含んだ。
「あ・・・・・・外に行こうとしてたんだっけ」
 窓から見える景色はとても美しく映えている。
 今夜の月は奇麗だろうな・・・・・・



 久川は小高い丘の上にある、あつらえたようにあった大きな石に腰を下ろ した。周りは総て草色に統一されている。都会ではこうはいかないわ、と嬉 嬉として筆を取る。膝の上にノートを広げ、どの風景を描こうか何度も方向 を変えては両手の親指と人差し指でそれを切り取っている。結局草原に海が 入るような所を選び筆を走らせた。
 始めはぼやけていた黒線が次第に形を成していく。普段は人物のデッサン ばかりなので輪郭のはっきりしない風景は苦手なのだ。
「空間が巧く描けないのよね」
 独り呟くとノートに描かれた風景と実際のそれとを見比べる。そして頚を 傾げる。どうも違う・・・・・・巧く奥行きが表現できないのだ。溜め息と共に、 描きかけのそれをめくって次の白紙に描き始める。これで三枚目だ。しかし それも程なくして息詰まってしまう。鉛筆でくしゃくしゃと紙に書きなぐり 次をめくる。
 そして描き始めたのは風景では無かった。風景を見ずに筆を進める。それ はすぐに顔の輪郭を取り始め、暫くして簡単ながらも一人の男の上半身が出 来上がった。
「人物画なら描けるんだけどな・・・・・・」
 それを頭上に掲げる。それは先程この島に一緒に来た阿崎であった。記憶 を頼りに描いた割には巧く特徴を捉えているように思う。後で見せてあげよ うかな、そんな事を考えながらふと時計を見ると既に時は午後の五時を廻ろ うとしていた。
「あ〜あ、結局描けなかったな。今日はこれくらいにして帰ろうか」
 身仕度を整えると沈みかけた太陽を背にして帰途についた。空が燃えるよ うな夕焼けに包まれようとしていた。それに伴い、東の空にうっすらと月が 姿を現そうとしている。


 久川が月鳴館を夕焼けのシルエットに見つけた時には、既に館には明かり が灯っていた。今日は夏日であった。今宵は熱帯夜なのだろう。昼間は吹い ていた心地好い風も、いつの間にか止んでいる。ここまで歩いて来たせいも あるのだろうが、久川の額に汗の雫が幾つも浮かんでいた。それを拭うと、 扉を押し開けた。
「お帰りなさいませ」
 入ってすぐのロビー、といってもちょっと広いホールのようなものだが、 そこで木田が出迎えてくれた。一応ロビーというだけあって受付けのような ものがあり、木田はそこで帳簿のようなものを付けていた。
「六時三十分から食事ですので」
「あ、はい、ありがとうございます。えっと、食堂に行けばいいんですよね?」
「そういえば話してありませんでしたね。申し訳ありません。阿崎様にもお 伝えしなくてはいけませんね」
「あ・・・・・・じゃあ、私が伝えておきますよ」
「ではお願いできますか? 実の所、私も食事の準備がありまして」
「はい」
 木田は恭しく一礼すると、廊下の奥に消えていった。確か聞いた所による と食事は館主である武島が作っているらしい。もともと武島の趣味だったの だが、それが高じて手料理を出す所までになったという。木田もそれを手伝っ ているのだろう。
 久川は三○一の前、つまり阿崎の部屋の前に立つと、少し逡巡した挙げ句 にそおっと扉をノックした。
 こんこん・・・・・・
 そのまま暫く時を置いたが返事が無い。寝ているのだろうか・・・・・・
 こん・・・・・・こんこん。
 やはり返事は無い。部屋にいないのかもしれない。食事までにはまだ時間 がある。後で出直そうか。
「どうしたの、久川さん」
 久川のすぐ後ろから声がした。
「わあ!・・・・・・何だ阿崎君じゃない。驚かせないでよ!」
 何だか今日はこんな事ばかりしているな。阿崎はふとそんな事を思い描い たが、すぐに久川を見て、
「何か用事でも?」
「うん、食事は六時三十分から食堂で始めるんだって」
「ありがとう、危なく夕食を取り損ねる所だった。それ、写生したノート?」
 久川が後ろ手に抱えているノートを指差して阿崎がいった。
「え、うん。今日は調子が良くなかったな。失敗ばかりで」
 いいながら阿崎の視線を避けるようにノートを背中に隠す。ノートに書か れているのは中途半端で人に見せられないような風景画と、よりによって目 の前にいる阿崎を描いた物だ。見せられるはずも無い。
「見せて見せて」
 久川の予想通り阿崎は眼を輝かせながら催促して来る。
「きょ、今日はダメ。ちゃんと描き上げてからね。それじゃ食事に行く時は 誘ってよ。一緒に食べに行こ」
 何やらひきつった笑みを張り付かせながら、久川は逃げるように部屋に入っ て行った。阿崎もひとしきり頚を傾げると部屋に戻った。



 やっぱり大した物は無いわね・・・・・・諦めの嘆息を漏らしながら司はバッグ をナイトテーブルに置いた。大きなスポーツバッグを開け、中から一眼レフ のカメラを取り出す。それはもう三年も使っている愛用の品だ。レンズを外 し、フィルムの残り枚数を確認すると再びバッグに戻した。
 再び深い息を吐くと、そのまま倒れ込むように仰向けにベッドに横になる。 そんなに重くない司の躯を、柔らかなマットレスが包み込む。僅かにスプリ ングが軋む音を除くと、部屋は静まりかえっていた。
 これでは仕事にならない・・・・・・司は心中そう感じていた。ここに来たのは 自分の意思である。仕事を依頼されたわけではないので、これが無駄になる とただの旅行になってしまう。勿論、費用は自腹を斬っているので収入どこ ろか支出のみが後に残る事になる。それだけは避けなければならない。
 何か観光名所のようなものを期待して、昼間外を廻ってみた。自然が多く 残る島の花や緑は美しいし、島の高台から見える海原は素晴らしい景観をか もし出している。だが、それだけだった。リゾートが一般に浸透した昨今に 於いて、景色が奇麗というのは旅行者にとってさほどの魅力的な要素とはな りえなくなっている。
 この月鳴館の売りがそれだけで無いのが、司にとって唯一の希望であった。 司は天体に関する知識はそれ程持っているわけでは無い。大熊座と子熊座の 区別すら満足に出来ないのだ。ましてや、この日本に於いて南十字星など見 える筈の無い事など念頭には無い。夏でもオリオン座が見えるものだと思っ ているのだから、その知識は子供のそれと差はないようであった。
 それでも司はそれに期待せざるを得ない。幸いにもここには天文学者が宿 泊している。巧くそのコメントを取る事が出来れば文章にも信憑性が増すだろう。
 素早く計算を終えると、ポケットから煙草を取り出し咥える。細身のライ ターで火を付け、その紅い唇から紫煙をくゆらせながら右手首に眼をやる。 時計は午後六時を廻ろうとしている。
 確か夕食は六時三十分からだった・・・・・・武島の言葉を思い出すと、早めに 食前酒でも呑もうと立ち上がった。そうだ、ここの食事はオーナー自ら作っ ているらしい。それも話題になるだろう・・・・・・勿論それなりの力量が備わっ ていたらの話だが。
 まだ半ばまでしか灰になっていない煙草を灰皿に押し付け、薄手の室内着 に着替えると幾分涼しくなっている廊下に出た。館内は直射日光が無い分だ け外よりはましだった。自然が多い外では薄着をする事も叶わなかったのだ。
 廊下は予想通り涼しかった。反対側の窓に設えられた窓が半分ほど開いて いる。風は殆ど入ってこないものの、そこから来る新鮮な空気はそれ自体司 を満足させるに十分である。窓に寄り掛かり外を眺める。既に太陽はその大 部分を水平線の奥に沈めている。この辺りは夏でも日の入りが早いのだろう か。東京ではまだ十分に明るいのだろう。
 東の空には薄っすらと、月光が太陽の残滓を受けながらぼんやりと輝いている。



「それにしてもここはいい環境だ。普段の生活からは想像も出来ない」
 ビールを片手に三上がいうと、食堂を立ち回っていた武島が脚を止め、
「ええ、そうでしょう。皆さんそういって下さいます。でもここの生活に慣 れてしまうと結構不便な所もありますよ。何といっても自給自足とまでいき ませんので、その都度陸まで行き来するのが大変です」
「そうでしょうな。こういうところは偶に訪れるのがいいのだから」
 ぐい、とグラスをあおる。食堂を眺めやると、武島と木田が忙しそうに立 ち回っている。人数分の食器を纏めている所を見ると、既に調理は終わって いるようだ。そういえば三上の鼻はさっきから香しい空気の流れを敏感に察 知していた。
 今、ここにいるのは三上だけのようだ。確か今日二人客が来たようだが、 三上はまだ見ていない。男と女で二人とも学生と聞いている。こんな所に若 い奴等が来るのは珍しい事だ、と三上は思った。
 不意に談話室にある大きな時計、三上の身長よりあるようだからこれはグ ランドファーザークロックというものなのだろう。三上の実家にはグランド マザークロックがあったが流石にそれを凌駕する大きさだった。それが低い 音で六回鳴った。
 六時を告げる音と共に談話室に一人の男が入って来た。リゾートに来てい るはずなのに、やけにきっちりと整えた髪、それ自体が私服なのではと思え るスーツ、表情と一体となった眼鏡は高槻のものである。
「やあ、高槻さん。一杯どうですかな?」
 少し紅潮した頬に笑みを浮かべ三上は高槻にビール瓶を差し向けた。 「いえ、私は。酒にはあまり強くありませんので。それに今夜は遅くなるで しょうから」
 表情を変えずにきっちりと誘いを断ると、談話室の窓から空を仰ぎ見る。 都合の良い事に今夜は雲一つ無い。東の空に見える月は、既に美しい光を放 ち始めていた。
 三上はしょうがないので自分のグラスを満たすと、ちびちびとすすった。
 それっきり二人の間に会話は成立しなかった。高槻の雰囲気は三上には馴 染めないようだ。会話のきっかけを見つける事も出来ずに、ただ時計を眺めていた。
 それからちょっとして、司が姿を現した。司は既に来ている二人に軽く眼 を走らせ、無言のまま食堂に入る。武島に断ってキッチンに入り、奥に並べ てあった赤ワインを一本取り出す。これがどんなワインなのか、司には判断 するだけの知識は無い。取り敢えず眼に入ったものを取り出したに過ぎない のだ。ワイングラスを片手にキッチンを出る。
 見ると食事の準備はほぼ終了したようだ。食堂は四人が座れる丸テーブル が四つ程、適当な距離をおいて配置されている。その総てのテーブルに食器 が並び、それぞれ違った花が飾られている。
 司は談話室には戻らず、テーブルの一つに座りワインを注いだ。グラスの 半分ほどに紅い液体を注ぐと、一口含んでその香りと味を愉しんだ。
 ワイングラスが空になる前に阿崎と久川が連れ立って姿を現した。
「皆さん集まったようですね」
 全員が集まったのを確認して武島が口上を述べ始める。
「この度は月鳴館に御宿泊いただき誠にありがとうございます。今夜は私の 手料理を愉しんでいただけると幸いです。もっとも皆様方のお口に合います か、いささか自信がありませんが。テーブルは御自由に御着席ください」
 武島の言葉が終わると待ちきれないというように三上が席に着いた。勿論 ビールを持ったまま。その後に続いて高槻が席に着く。三上と別の席に三上 に背を向けるように。司はそこを動かない。阿崎が残った席に座る。
「阿崎君、ここ・・・・・・いいかな」
 久川が阿崎の正面の席に立っている。阿崎は快く承諾すると久川ははにか みながら席に着いた。阿崎と久川を除いた三人は一人ずつ席に着いている。 本来なら何人か相席になるのが通例であったが、この日は人数が少なかった のでこういう事になった。
「美味しいね、阿崎君」
 久川は卓上に並べられた料理の中から、羊肉のソテーを優雅に口に運んだ。 半ばまで程よく焼かれた肉から、じわりと肉汁がしみだして来る。料理には 詳しくない阿崎だが、久川の言葉に異論は無かった。一緒に出された赤ワイ ンも料理を十分に引き出す申し分の無いものだ。それこそソムリエが選びぬ いた逸品のようだ。
「久川さん・・・・・・君、未成年なんじゃ?」
 確か久川は専門学生だといっていた。とするとその可能性は高い。
「えへへ、実はそうなんだ。でもいいでしょ? 折角なんだから味わわない とさ。少しにしておくから」
 しょうがないな・・・・・・阿崎は久川のグラスにワインを注いでやる。久川は とても美味しそうにゆっくりと味わっている。
 三上と高槻は黙々と食べている。特に旨いとはいわないが、その食べっぷ りから料理に不満が無い事は容易に想像できた。
「そういえば高槻さん。確か天文学者だと伺ってますが・・・・・・」
 阿崎がはす向かいにいる高槻に声を掛ける。高槻は既に食事を終えており、 食後の酒を軽く堪能していた。声を掛けるまで何か考えに没頭していたよう で、既に今夜の事で頭が一杯になっているのかもしれなかった。
「ん、君は・・・・・・?」
「あ、すいません。僕は大学生で阿崎といいます。この館には専用の望遠鏡 があると聞いていたので、今夜はどうかなと思いまして」
 座ったまま軽く会釈をする。物静かで礼儀正しい阿崎は高槻には好印象だっ たようだ。相好を崩して高槻は改めて阿崎に向かい直った。
「ふうむ、さっき見た所天候も上々だし雲も無いようですから、期待できそ うですよ。良かったら皆さんもどうぞ、今夜十時から武島さんに展望台を借 りる予定ですから」
「いいですね、是非お伺いさせていただきますよ」
「ええ、どうぞ。私はこれから準備がありますので先に失礼させていただきます」
 軽く一礼をして高槻は食堂を後にした。
「律義、というか几帳面な人ね。折角こんないい所に来ているのに、まるで 仕事しに来たみたい。スーツにネクタイなんて」
 久川が高槻の後ろ姿を眼で追いながら呟く。
「彼にしてみれば、空に輝く星が総てなんだろう。それ以外の事には全然興 味を示そうとはしないしな。多分辺りの景色なんて眼に入っていないのだろ う。ずっと空ばかり見ているんだ」
 高槻がいなくなった事で、阿崎の正面に三上がいる。食後のビールを大き なジョッキから口に運んでいる。食前から呑んでいるせいか、既に酔い始め ているのだろう、その顔は遠めにも解るほど赤らんでいた。時々呂律が廻ら なくなるのはそのせいだろう。口調もだいぶぞんざいになってきている。
 阿崎がそれに答えずにいると、ジョッキに残っていたビールを一気に呑み 干し席を立った。見た目ほど酔ってはいないのか、しっかりした足取りで部 屋を出ていった。
「ご馳走さまです。とても美味しい食事でした。そこらのレストランにもひ けをとらないんじゃないですか? 趣味と聞いていましたが、とんでもない」
 口を拭いながら阿崎が武島に賛辞を述べる。実際これほど美味しい食事を 取ったのは久し振りの事だ。
「私も、美味しかった!」
「ありがとうございます。そういってくださると私も作った甲斐があったと いうものです」
 武島と木田は後片付けをするために、見事に空になった皿を下げ始めた。 阿崎と久川は談話室に場所を移す事にした。
 中央の椅子に身を沈めると、
「阿崎クン、一緒にワインでもどう?」
 背後から司が阿崎の頚に腕を廻す。その吐息には甘い香りが漂っている。
「え、あ、司さん?」
「やあだ、茂美って呼んでっていったじゃない」
 甘い声でいうと、阿崎の頬を撫でる。見るとその手には、口の空いたワイ ンとグラスが二つ握られていた。
「つ・・・・・・茂美さん、だいぶ酔ってますね」
「ん? そんなことないわよう。そんな事よりさ、呑んで」
 阿崎が断る前に、なみなみと注がれたワイングラスを口にあてる。しょう がないのでそのまま半分ほどを呑む。
 がたん!
 突然久川が立ち上がり、阿崎を睨むと無言のまま部屋を出ていってしまっ た。何か誤解をしているな・・・・・・心中思ったものの、追いかけるわけにもい かずそのまま見送るしかなかった。
「あら、彼女行っちゃったわね。いいの?」
「別にそういう関係じゃないですから・・・・・・」
「そお? じゃあちょっとあたしに付き合いなさいよ」
 司は阿崎の横に陣取ると、二つのグラスを紅い液体で満たした。この様子 では暫く付き合わないわけにはいかなそうだ。軽く苦笑いを浮かべると司の グラスに自分のそれを合わせる。チン、と涼しげな音を残し二人は同時に口 を付けワインを口に含む。甘い味が舌に絡まり、アルコールが咽を刺激した。 壁に視線を這わせると、時計が八時四十分を廻ろうとしているのが見えた。


 談話室の時計が九時三十分を告げた。夕食の後片付けを終え、自室にいた 武島はさほど時を置かずに食堂に姿を現した。食堂にも談話室にも人の姿は 無い。明かりこそ灯っているものの、閑散とした空間に寂寥が満ちている。 武島はワイン置き場から一本のワインを取り出し、グラスを取り出す。ワイ ンを冷水に漬けワゴンに乗せる。
 九時三十分くらいになったらワインを部屋まで持ってきて・・・・・・一時間程 前に司から聞いた言葉である。武島はその言葉を頭の中で反芻すると、時計 を見て時間通りである事を確認してから部屋を出た。
 司の部屋は二○二、二階にある。ワインを落とさないように、ゆっくりと 慎重に階段を昇る。
 二○二のプレートのある扉の前に立つと、こんこんと軽くノックをして、
「司様、ワインをお持ちしました」
 と伝えた。
 一呼吸、二呼吸しても返事が無い。再びノックをして、
「司様?」
 声を掛けるも、やはり返事は無い。
 寝てしまったのだろうか・・・・・・何気なくノブに手を掛けると、簡単に廻る。 ここはオートロック方式ではないので、鍵はしっかり掛けるよう注意した筈 だ。しかし鍵を掛けずに寝てしまうのはよくあることだった。
 そっと扉を開けて中を覗く。ナイトテーブルの側の椅子に座った司の後ろ 姿が見える。しかし、何かがおかしかった。うたた寝をしているにしては体 勢が不自然であった。頭が前に垂れる、というなら解るが果たして胸が膝に つくまで躯を折るだろうか。両腕をだらしなく垂らした様子はとても寝てい るものとは思えなかった。
「司様・・・・・・?」
 ワゴンをそのままに司に近寄る。軽くその肩を揺すると、司は糸の切れた 操り人形のように床に崩れ落ちた。その顔は既に土気色で生気は全く感じら れない。眼をかっと見開き舌を出し、頚にネクタイを巻いた司はもう動く事 は無かった。



 屋上に創られた専用の展望台から美しい空を存分に見る事が出来た。普段 見る事の出来ない満天の星空。それだけでも貴重な体験である。阿崎が北極 星を眼で追う。星座には詳しくない阿崎でもそれくらいは見つける事が出来る。
 頭上高くで瞬いている月はほぼ満月で、淡い輝きで辺りを照らしだしてい る。展望台の端で高槻が望遠鏡の調整をしている。持参してきた広角レンズ を取り付けるといっていた。久川はすごい、とかうわあ、とか感嘆符を存分 に使って感動の深さを表現している。
「お、丁度良かったかな」
 少し遅れて三上が現れた。
「あと数分で準備できますよ」
 レンズを覗きながら高槻が答える。耳を澄ますと、蟲の声が涼しげに響い ている。夜気も心地好く久川の機嫌もそこそこ戻っているようだ。
「いい月ですね」
 阿崎がいうと、
「確かに。でも、天体観測には余り良くありません。月の光が星の光を邪魔 してしまうんですよ。レンズに余計な光が入ってよろしくない・・・・・・さ、準 備出来ました」
 軽く手を払うと、星図を取り出し月光の許でそれを見始めた。
「皆様!」
 荒々しく扉を開け、武島が現れた。走ってきたのだろうか、呼気を荒げている。
「司様が・・・・・・」
「そういえばいませんね。彼女も呼んだ方がいいでしょうね」
 そういった阿崎に悲しげな表情で武島は、
「司様が亡くなっています」
 と告げた。
 皆、武島を見たまま動く事が出来なかった。



「駄目です。通じません」
 武島は談話室に置かれた電話から耳を話しながらかぶりを振った。無用の 長物となった受話器を戻すと、溜め息を吐きながら椅子に力無く腰を降ろし た。
「しかし、本当に司さんが?」
「ええ、確かです。脈を調べましたが既に・・・・・・」
 何かの間違いであって欲しいという阿崎の希望は簡単に崩れた。
 天体観測をしている場合ではなくなり、木田を含めた全員が談話室に集まっ ている。なにはともあれ警察に連絡を、との意見に従い電話をしたが通じな い。どうやら何処かで電話線が切られているようだ。受話器からは何の音も 聞こえては来なかった。この館にはここにしか電話は無い。武島の私室にも あることはあるが、同じ回線を使用している為結果は見るまでもなかった。
「しかしあなたの話によると、彼女は頚を絞められていたですって? それ じゃ殺人じゃないですか。事故じゃないとすると、彼女を殺した誰かがいる 事になる」
 高槻の言葉はまだ見ぬ殺人者の存在を示唆していた。状況からしても誰か が司を殺したのは明白である。問題はそれが誰によって行われた事なのか。
「武島さん、誰かが姿を隠してこの島にいるんじゃ? そいつがあの女を殺 してまた何処かに隠れているんでは?」
「でも、船も無しではこの島には来れません。船が出入りできるのはあの入 り江以外には有り得ないのです。あそこ以外は断崖絶壁ですから」
「じゃあ・・・・・・」
 両腕で自分を抱きかかえるようにしている久川が震えるような声で、 「じゃあ、私達の誰かがあの人を殺したって事ですか? 私達は偶然ここで 逢ったんですよ。誰がそんな、そんな恐ろしい事を・・・・・・」
 そこまでいうと、久川は口を閉じ誰かを探すように部屋を見まわす。部屋 は静寂に包まれていた。あれほど聞こえていた蟲の声も部屋の中までは聞こ えて来ない。ねっとりと空気が躯に絡み付くようで、久川は肩を震わせた。
「そうだ! 船があるんでしたら、それで警察を呼びに行けばいいんですよ。 武島さん、行ってもらえますか?」
 阿崎の言葉に肯くと、
「解りました。私が警察を呼んできます。木田君、ここはまかせたよ」
 私室から上着を取ってきて着ると、玄関を後にした。警察が来れば総てが 解決するだろう・・・・・・皆そう思っているのが、表情から如実に読み取る事が 出来る。
 一人を除いて。
「司さんの様子を見てきます」
 阿崎はそういい残すと部屋を出た。敢えてそれを止めようとしたものはい ない。司が死んでいるのは既に解っている事だし、死体を見たいという酔狂 な人間もいないのだ。



 階段を昇り、二○二の扉の前に立つ。この部屋が司の部屋の筈だ。予め準 備していたハンカチで手を覆い、指紋が付かないようにノブを廻す。微かに 軋んだ音を立てて扉は開いた。
 扉を開くと、まず部屋に入らず中を見渡す。見覚えのある部屋の様子、阿 崎の部屋と同じであった。入ってすぐの所にワインを乗せたワゴンが見える。 これを持ってきて司の死体を見つけたのだろう。テーブルの上には灰皿があ る。ベッドに眼を移すと乱れた様子は無く、その上に大きめのスポーツバッ グが乗っている。
 それ以外に何も無いのを確認すると、まずは背を向けている椅子の正面に 廻り込み司の死体を確認した。確かに死んでいる。念のため脈を計り、胸に 手を添える。既に幾分体温が低下しているのが解った。多分武島が死体を発 見する直前に殺されたのだろう。
 次に死因を見る。やはり頚に巻かれたネクタイが原因なのか。それをそっ とずらす。頚にはくっきりと痕が残されており、既に鬱血が始まっていた。 司の見開かれた眼を閉じさせると、死体の検分を終了した。
 再びテーブルに視線を移す。阿崎の部屋にもあった灰皿が乗っているだけ で、他には何も無い。司は煙草を吸うようだから使っていても不思議は無い。 灰皿をテーブルから落としたのだろうか、灰皿の周りや床、ワゴンの脚に至 るまで灰で汚れている。ワゴンの脚から少し灰を擦り取り匂いを嗅いでみた。 やはり煙草の匂いがする。床の灰溜まりもやはり煙草のもののようだ。吸い 殻だけは拾ったのだろう、灰皿には灰は殆ど入ってはいなかったが、吸い殻 だけが残されている。
 司の前を横切りベッドに移動する。指紋を付けないよう細心の注意を払い ながら中を見る。口は開けられたままで中の物が見える。どうやらカメラの ようだ。司はジャーナリストを名乗っていたから、写真を撮る事は当然の事 だろう。中にある物を全部出してみた。
 少し古めの一眼レフのカメラ、それ用のレンズが二本。ファイルに綴じら れたレポート用紙が数枚。取材内容を記してあるようだ。
 それだけだった。衣服など他のものは部屋の隅のもう一つのバッグに入っ ていた。着替えが少しと、洗面用具ぐらいしか入ってはいない。特に不審な ものは見つける事が出来なかった。
 ・・・・・・おかしい。内心何か引っ掛かるものがあった。一見、異常は無いよ うに思えるこの部屋だが、阿崎はあることに気がついた。考えを整理してい ると正面玄関の扉が開く音が聞こえた。
 僕の考えが正しいとしたら・・・・・・
 阿崎は部屋を後にした。
 廊下の窓から月光が顔を照らす。
 月は総てを知っているのだろうか。



 阿崎が談話室に戻るのと時を同じくして武島が姿を現した。
「随分早いじゃないですか? 警察はどうなりました」
「船が動かないのです」
 三上の言葉を遮るように武島がいう。
「動かない? 故障ですか、こんな時に・・・・・・」
 高槻が大きな溜め息を吐くと、武島はうつむいたまま頚を振った。
「そうじゃありません、誰かが操舵室を破壊したんですよ! エンジンがか からないのは勿論、無線すら使えません」
「じゃ、私達は閉じ込められたんですか?」
「そういうことになるね・・・・・・しかしいつまでも島から船が出なければ誰か が不審に思うでしょう。武島さん、船は何日間隔で出ていたんです?」
 不安がる久川を落ち着かせながら阿崎が尋ねる。
「殆ど毎日出ていましたよ。食料品の買い出し、特に野菜なんかは日持ちし ないものですから」
「でも」
 三上が口火を切る。
「それまでずっと姿の見えない殺人犯と一緒なのか? いつ我々も襲われん とも限らんぞ。そうなったら・・・・・・」
「心配ありません」
 自信ありげに阿崎が言葉を遮る。
「犯人はずっと僕達の前にいるのですから」
 時計が十一時の鐘を鳴らした。
「何を根拠に・・・・・・? それよりも誰が犯人だと?」
 高槻は顔をひきつらせながら、周りを見まわす。猜疑の視線を皆の顔に落 とした。それは高槻だけではない。久川もそうであったし、木田でさえ主人 を除いた全員をゆっくりと眺めていた。
「それは・・・・・・」
「阿崎様、不用意な言動は混乱を招くだけです」
 武島の言葉に三上が同意した。
「そうだな。それに俺にいわせるとお前だって怪しいもんだ」
「それもそうですね・・・・・・ではここで事件を整理してみましょう」
 その言葉には誰も逆らわなかった。尋常でない状況が皆の思考力を奪って いるのだろうか。それとも阿崎がそう仕向けたのだろうか。混乱を起こしそ うな状況に於いて、何故か皆落ち着く事が出来た。
「まず、事件の起きた時刻。僕が談話室で彼女と別れたのが九時少し前、こ れは武島さんが見ている筈です。そして武島さんが司さんの部屋を訪れたの が九時三十分を廻った頃。つまり犯行はその間に行われた事になります。そ れは間違いないでしょう」
 その言葉に間違いは無いようであった。高槻が確認の視線を武島に送ると、 武島は肯定の仕草を見せた。
「その間の皆さんの行動ですが・・・・・・武島さん」
「私は夕食の後片付けを終えた後、私室に戻りました。九時三十分になった のを確認して、司様の部屋へ行ったのです。その間誰にも逢っていませんの で、証明は出来ないのですが」
「私もほぼ同様です。武島さんと一緒に食事の後片付けをしてから自分の部 屋にいました。今夜は特にする事がなかったので、武島さんに呼ばれるまで 独りでした」
 武島の言葉に続いて木田が証言をする。今の所、嘘をついているような話 は出ていない。阿崎は無言で考え事をしていたがやがて先を促した。
「私は今夜の準備をするため、九時頃まで部屋にいましたが、それから展望 台に上がりました。最初に展望台に来たのが久川さんで、九時十分ごろだっ たと思います。それまで私は独りでした」
 腕を組んで、時折天井を見たりしながら高槻がいった。もう落ち着いたよ うだが、もともと神経質なのか、ことあるごとにあちこちに視線をさ迷わせていた。
「次は俺だ。俺は食事をして部屋に戻ったら、酒のせいかうたた寝しちまっ たんだ。起きたら九時三十分を廻っていたから慌てて展望台に行ったって訳 だ。せっかく来たんだから見逃すのももったいないしな」
 既に最初出逢ったような礼儀正しい様子は微塵も感じられない。これが本 来の彼なのだろう。この状態で社交的になってもしょうがないと判断したの だろうか。
「ということは、武島さんが司さんの部屋に行ったのと同じくらいですね。 といっても司さんの部屋は二階で、三上さんの部屋は三階だから逢う筈も無 かったということか」
 誰にいうでもなく独りで肯くと、
「最後、久川さん」
「私は阿崎君と別れてからずっと部屋にいたわ。で、高槻さんがいったよう に九時過ぎになってから展望台に行ったの。そしたら高槻さんがもう来てい て、少ししたら阿崎君が来たよね」
「うん、実の所僕も司さんと別れてからずっと部屋にいたんだ。僕は余りお 酒に強くないので、少し酔いを醒まそうと窓を開けて外を眺めていたんだ。 いやあ、夜でもいい景色です。月があったから良く見えましたよ」
 場違いな笑みを浮かべる阿崎。皆呆れたような顔をして相手にするものは いなかった。
「で、結局解ったのは全員に九時から九時三十分迄のアリバイが無い事だけ ですか。明確な死亡推定時刻が無い以上、犯人を断定するのは不可能でしょ う。私はこんな茶番劇はもううんざりです。これは小説でもTVドラマでも 無いんですよ! 実際に人が死んでいるんです。君はよく平気で探偵ごっこ なんかしていられますね」
 我慢が出来なくなったのか、高槻が声を荒げる。今までの高槻の言動から は想像もつかないほどの動揺のしかただ。この非日常的な状態から抜け出し たいのであろう。頭を抱えると大きな溜め息を漏らした。
「平気なんかじゃありません」
 阿崎はそれまでと打って変わって沈痛な表情を見せた。 「僕は一年ほど前にも人の死に立ち会っています。それも高校時代の友人の
。 その人も殺されたんです・・・・・・よりによって同じ高校時代の友人によって。 その友人も死んでしまいました。だから、僕は眼の前で起きた殺人事件を放っ ておくことは出来ないんです。人を殺しておいて逃れようなんて、都合のい い事は許す事が出来ません」
 静寂が訪れた。誰も言葉を発しようとはしない。高槻も阿崎が興味本意で こんな事をしているわけでは無いと知って、二の句をつげられない。
「しかし、皆様がここに宿泊なされたのはいわば偶然。ここにいる人が犯人 だとは到底思えませんが・・・・・・」
 木田は遠慮がちに疑問を言葉にする。
「確かに客同士、知らない奴だろう。でもここでは知らないように振る舞っ ていただけかもしれない。ここで落ち合ったかもしれないし、ここで知って から殺す事にしたのかもしれん」
「それは有り得ません。何故なら電話線が切られ、船が壊されているからで す。犯人は予め司さんを殺すつもりでここに来たのです。咄嗟の犯行でそん な細工をする時間は無いからです。多分昼間の内にやっておいたんでしょう。 そうして時間を稼ぎ、死亡推定時刻やアリバイをあやふやにしておけば犯人 を特定するのが難しくなりますから・・・・・・だからこの中に犯人がいるといっ たのです」
 そう説明されると総てが納得できる事だった。通りすがりの犯行ならそん な手の込んだ事をする必要は無い。すぐ逃げてしまえばいいことなのだから。 「という事は、少なくとも司さんと犯人は顔見知りだったという事ね・・・・・・ でも、みんなそんな素振りは見せなかった。みんな初めて逢ったようだったけど」
「確かに客同士はな。でも武島さん、あんたがあの女をここに呼んだとした ら・・・・・・? それなら客同士が知らんのも当然だ。自分で細工しておいて、 知らん顔でワインを運ぶ。そもそもワインなんて頼んでないのかも知れん。 そして殺す。よくいうだろ、第一発見者が怪しいって」
「そ、そんな・・・・・・」
 何ともいえぬ緊張感が部屋を蹂躪した。皆の視線が武島に集中する。弁解 の言葉を発せられない武島の代わりに阿崎が口を開いた。 「いえ、武島さんは犯人じゃありません。犯人は別の人です」




阿崎玲治から読者への言葉

ここに至り、僕はこの殺人が計画的なものであり「月鳴館」 に宿泊してる人物の中に犯人がいる事を突き止めました。 僕を除く五人の中に犯人はいます。僕が見聞きした情報は読 者の皆さんも知っています。僕だけが知っている事はありま せん。

ここで読者の皆さんに挑戦です。僕が推理したのと同じ経緯 で犯人を見つけて下さい。今までに解決に必要な事は総て出 ています。当て推量ではなく、しっかりとした推理で犯人を 見つけて下さい。

犯人を特定する事が出来たら進んでください。




「犯人はあなたです」
 阿崎が指し示した方を一斉に見る。その先には三上が座っていた。 「俺・・・・・・? 馬鹿な、アリバイが無いのはみんな同じなんだ。何故俺が殺 さなければならん」
 馬鹿馬鹿しい、というように阿崎の言葉を否定する。
「まず確認しましょう。武島さんが司さんの死体を発見したのは間違いあり ません。そして木田さんを呼んでから僕達を呼んだ。その間犯人は何処にい たか? 武島さんと木田さんを除く全員は展望台に集まっていました。しか し犯人はそこにはいなかった。何故なら犯人は武島さんが木田さんを呼びに 行くまでまだ部屋の中にいたからです。犯人は司さんを殺害し部屋を出よう としました。そこに武島さんが現れたので、ひとまず姿を隠したのです。ト イレやバスルームは各部屋にありましたからね、場所には困らない。そして 武島さんがいなくなった後、犯人は悠々と部屋を後にしたのです」
 そこまで一気に語ると、じっと三上を見た。三上の反応を確認しているの だ。他の全員は事の成り行きが解らず、ただ阿崎と三上を見ているだけだ。 口を挟もうとする者もいない。
「は、何だそれは。どう考えたらそうなる? 想像で物をいうのも程々にし たらどうだ。俺が犯人だったとして、どうして部屋にいた事が解る? 確か に俺は一番最後に展望台に行ったさ。しかしそんな事は何の根拠にもならな いぞ」
 三上の言葉は正しいように思えた。その場の全員が三上の言葉に心中肯い ていた。阿崎のあまりに荒唐無稽な話はどう考えても信じられるものではな かったのだ。
「それを今から証明しましょう。場所を司さんの部屋に移します」



 司の部屋は阿崎が調べた時と何ら変わる所はなかった。ただ一つ、司の遺 体はベッドに移されており、それには白いシーツが掛けられていた。
「僕がこの部屋を調べた時、不審な点がいくつもありました。武島さん、こ の部屋の状況はどうです、何か見た時と違いますか?」
 いわれた武島は部屋をじっくり観察してみた。だが自分が見たとおり、勿 論、司の遺体を除いての事だが、何ら変わる所はないように思えた。それを 確認するように木田に視線を送る。木田も武島と同じように部屋を見回した が、頚を左右に降るだけだった。
「同じです。最初に来た時は司様の事しか覚えておりませんが、木田と一緒 に見た時とは変わっている所はありません」
 満足そうに肯くと阿崎は先を続けた。
「不審な点とは・・・・・・一つ、灰皿の灰がこぼれている事。二つ、バッグの中 身、つまりカメラ一式ですが、その何処にもフィルムが無い事。カメラの中 にすら無かったのです。三つ・・・・・・これは一つめと関係あるのですが、こぼ れた灰がワゴンの脚にも付着している事。ここから僕は犯人の動機と犯人が 武島さんが部屋に来るまで部屋の中に居たことを知ったのです。動機とは即 ちフィルムです。犯人は司さんを殺害した後、総てのフィルムを持ち去った のでしょう。司さんを殺してまで奪ったフィルムこそ、犯人を殺人に駆り立 てた物なのです。次にワゴンの脚に灰が付着しているという事から、灰はワ ゴンが来てから、つまり武島さんが部屋に来てからこぼれた、ということに なります。付け加えるならば、吸い殻を戻している時間はあっても灰を掃除 する時間がなかったという事は、すぐ誰かが戻ってくるだろうという事から なのでしょう」
「なるほど、いや見事な推理だ。尊敬に価するね。ただ、何故俺が犯人なの か未だに解らんのだが。それにその推理には大きな穴がある。それら総ては お前が仕組んだことかも知れんという事だ。お前だって後から部屋に入った だろう? その時にフィルムを盗んで灰皿を落としたのかも知れんじゃないか」
「た、確かに阿崎君の意見も理に適っているが、三上さんのいう事も最もだ。 もし阿崎君のいったような事が事実だとしても、それを証明する事が出来て いないんですよ。三上さんが犯人だというのも、最後に展望台に現れたから でしょう。確かに武島さんが司さんを見つけた後部屋を抜け出したなら、犯 人の条件には合いますが・・・・・・」
 証拠が無い、と高槻はいいたいのだろう。確かに三上が部屋にいたという 証拠はまだ見つかってはいない。それに最後に部屋に入ったのは、他ならぬ 阿崎なのだ。三上同様、阿崎にも嫌疑が降り懸かって来る。
「ふん、墓穴を掘ったな。自分が犯人かもしれないような説明じゃ、みんな 納得しないだろう」
「証拠は既に出ています。三上さんは自分が犯人であることを既に自白して いるのです。そしてここにいる全員がその言葉を聞いています」
 全員が息を呑んだ。
「ねえ阿崎君、いつ・・・・・・」
 久川の言葉は三上のそれによって遮られた。
「ふざけるのも大概にしろ! 俺が自白した? 解るように説明してもらお うじゃないか!」
 激昂して立ち上がる。怒りで我を忘れている。顔を赤くしながら阿崎に詰 め寄ってきた。
「あなたは先程いいましたね。武島さんが犯人なんじゃないか、ワインを運 んだ時に殺したんじゃないか、と。しかしワインをあの時間に運んでいくの は、当の武島さんとそれを依頼した司さん、そしてあの部屋に残っていた犯 人しか知らないことなのです。そして三上さん、あなたはこの部屋には来て いない。それなのに何故あなたは武島さんがワインを運んだ事を知っている のです? 何故司さんが頼んだ事を知っているのです? 今の今までこの部 屋にワインがある事は知らなかった筈なのに!」
 三上は声を詰まらせたまま無言のままだった。
 確かにここまでワインの事は武島も木田も、そして阿崎も口にしてはいな い。久川は阿崎にいわれてようやく、その事に気がついた。ここにワインが ある事を聞いたのは三上の口からだった事を思い出した。ワインが運ばれた のを三上に聞いてからここへ来たから何の違和感も感じなかったが、確かに 順序がおかしい。そのせいでワインがここにある事を知っていると思い込ん でいた。知らない事を知らない筈の人間から聞かされていたのだ。だから高 槻も久川も、全員が既に知っているような錯覚を覚えていたのだ。
「反論は?」
「・・・・・・無い」
 苦渋をしぼり出したように三上はいった。
「事件は解決しました・・・・・・」
 窓を見ると、満月が見えた。あたかも総てを知っていたかのように。やっ と真相に辿りついたの? というように柔らかな光が注がれた。
 ・・・・・・ああ、月だけは総てを見ていたんだ。それを訴える為にこんなに明 るく輝いていたのか・・・・・・
 阿崎は満月を眺めながら思った。


「結局は阿崎君のいった通りだったんだね」
 船の上、来た時と同じように阿崎と久川は甲板に連れ立っている。だが船 は警察のものだ。武島のクルーザーは故障の度合がひどく動かす事は出来な かった。風が同じように二人を撫でる。来る時は大きくなっていった月見島 と月鳴館が小さくなっていく。潮の香りがする。太陽が水平線に沈もうとし ている。空が、海が夕焼け色に染まっていた。
 次の日、木田の修理の腕がよかったのか無線が回復した。そしてすぐ警察 を呼んで事のあらましを説明した。三上は観念して総てを警察に話した。犯 行方法は阿崎の推理通りだった。
 三上は元々司と顔見知りだった。三上はある取り引き相手から賄賂を受け 取っていたのだ。現金だけでなく、売春組織を紹介され定期的にそれを利用 していたのだ。その現場を写真に撮られ、収賄の証拠も握られてしまってい た。仕事が巧く行っていなかった司に脅迫され、月鳴館で落ち合い現金と引 き換えに写真を貰う約束であった。
 だが、三上にそのつもりはなかった。たとえその場はごまかせても、再び 強請られるのは想像に難くない。そこから誰に洩れるとも限らないのだ。そ れを防ぐ方法は一つしかない・・・・・・三上はそう決心した。それはあの島に着 いてすぐに思い立った事であった。そのせいで杜撰な計画になってしまったのだ。
 三上が自供したせいで他の取り調べは型通りのものだった。大した時間も かからず、その日の夕方には戻る事を許された。高槻は一足先に帰っていた。 早く帰って本当の休暇を暫く取るつもりだといっていた。武島と木田は月鳴 館に残っているが、暫くは営業を中止するらしい。それから続けるかどうか じっくり考えるという事だ。久川はまだ長い夏休みを満喫するのだろう。こ こで起きた忌まわしい事件を忘れ、案外楽しく過ごすのかもしれない。阿崎 も長い休みが続く。これからどうしようか悩んでいた。何処かへ出掛けよう とは思わない。やはり旅行にでようなどと、不相応な事をしたのが間違いだっ たのだ。これからはおとなしく部屋で本でも読んでいよう・・・・・・阿崎は固く そう決心した。
「そういえば、絵はどうなったの?」
「絵? あれね、完成させる時間無かったな。残念ね・・・・・・そうだ! 今度 何処かに遊びに行かない? 何処か景色の良い所にさ。そうしたらいい絵が 描けると思うの。阿崎君もまだまだ休みなんでしょ?」
「ま、確かに休みだけど・・・・・・」
「じゃ、決定ね! 場所決まったら連絡するね」
 ふう、と溜め息をつきながら空を見る。既に幾つかの星が見え始めていた。 宵の明星と呼ばれる金星が一際輝いて見える。ちらり、と隣にいる久川を見 た。常に輝いている星のようだ・・・・・・きらきらと瞬いて、一時として同じ表 情を見せない。
 隣で久川は無邪気に星を眺めている。
「あれ! 北極星じゃない」
 阿崎の袖を引っ張り空を示す。
 やれやれ、元気だ・・・・・・疲れた笑みを浮かべ空を見る。東には昇ったばか りの月が姿を見せていた。今夜もいい月だ・・・・・・柔らかな月光の輝きが二人 を包み込む。
 やがて空が闇色の帳に包まれると、月は輝きを増し、更に美しく輝いた。 二人は暫しの間、波の音に耳を傾け月光をその躯に存分に浴びた。心地好い 時が流れ、悲しい出来事を洗い流してくれているようだった。この月を武島 と木田も見ているのだろうか、そして三上も。
 月光は時に安寧を与え、時には狂気を与えるのだろうか。三上はこの月に 何を感じたのだろう。彼にとってこの月光は死の輝きだったのだろうか。月 が総ての運命を定めたような気がしてならない。あの日、あの場所にいた者 は月に魅入られていたのだろう。

- 了 -

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