夏。毎年のように云われているが今年もその例に洩れず異常気象であった。
去年は熱波に襲われたが、今年は冷夏であるようだ。しかしそれを実感出来
る人は数少ない。やはり夏は暑いものなのだ。
この日もそうであった。気温は三十五度を越え、外を歩く人々の額を汗が
流れ落ちている。そして涼しげな場所を求め、その結果冷房の効いている喫
茶店は普段の倍近い客入りとなっている。
土曜日の昼下がり、路は少年少女たちで溢れている。少年少女、つまり学
生達は晴れ渡った空に文句を云いながら家路についている。若い彼らはこの
状況でも元気であった。さらさらと長い髪を靡かせながら自転車を疾走させ
ている少女は、そんな中でも涼しげで少年たちの視線を集めた。ペダルを踏
む脚が小刻みに上下する度、にスカートから細く白い脚が覗く。
少女の前方に、二人の男子生徒が歩いているのが見えた。
「なあ、これからどうする?」
尋ねたのは崎川伸、市内の品川高等学校の二年生。背の高いこの少年は、
右手に持った重そうな学校指定の鞄を背中に担ぐようにしている。そして左
手で少し長めに伸ばしている髪を掻きあげる。その手に汗がじっとりと粘り
ついている。それをズボンで拭うと、
「なあ」
と再び聞いた。
「ん? ああ・・・・・・」
そう気の無い返事をしたのは、河原田哲也。崎川と同じ学校に通う同級生
である。二人は小学校の頃からの親友であったが、比較的真面目な河原田に
比べ、教師に問題視されている崎川とここまで仲が良いというのも不思議な
ものであった。
河原田はふう、と深く息を吐くと額に手をかざし空を仰ぎ見た。空は雲一
つ無く、蒼穹という言葉が頭に浮かんだ。河原田は崎川に比べ少し背が低く、
体つきも華奢であった。
「そうだね、いつもの場所にでも行こうか? あそこなら少しは涼しいだろ
うし、どうせ本格的に活動するのは夜になるんだろう」
崎川の顔を覗き込むようにする。
「ああ。それじゃいつもの場所に・・・・・・三時な」
河原田が肯くと同時に、二人のすぐ傍を疾風が走り抜けた。砂埃が宙に舞
い、生ぬるい風が髪を撫で上げる。顔の前に手をかざし眼を瞑った二人の耳
に、きぃっという甲高い音と、ざざぁというアスファルトを擦る音が聞こえた。
ゆっくりと眼を開けた河原田の視界に、紅いスポーツタイプの自転車に乗っ
た髪の長い少女の姿が映った。少女は片脚をペダルに掛けたまま、もう一方
の脚で躯を支えている。スカートの裾から、白く長い脚が伸びている。少女
にしては背は高い方に属するであろう。少女は左手で腰まであろうかという
髪を掻きあげ耳に掛ける。太陽に光が髪に反射して、美しい黒髪が今は僅か
に茶色掛かって見えた。小さな頭に大きめな瞳が二人を見据え、鼻梁の整っ
た表情は笑みを浮かべている。誰が見ても云うであろう、奇麗な娘だ、と。
「なにしてんのさ、二人で」
その少女、宮嶋千尋がよく通る声で云った。崎川と河原田の二人は知って
いる事だが、こう見えて千尋は結構口が悪い。正確には口が悪いという訳で
は無く、ざっくばらんで男みたいな話し方をするのだ。特にこの二人とは、
やっぱり小学校から一緒でその傾向が強い。他の人と話す時はそれ程酷くは
ないのだが、二人はそんな千尋を見る度に「誰も千尋の正体を知らないんだ」
と思うものだ。
「何って・・・・・・放課後する事と云ったら家に帰る事じゃないか。僕たちが他
に何をしているように見えるんだ?」
河原田が呆れたように云うと、
「家に帰らない事もあるくせに」
と返された。否定は出来ない。こういった週末などは、時として家に帰ら
ずそのまま街へ繰り出す時もある。
何故千尋がそれを知っているかと云えば・・・・・・
「千尋だって俺たちと一緒に行くくせに」
「それはいいっこなしだよ、伸」
照れたような笑みを浮かべる。そう、千尋は時としてこの二人と一緒になっ
て遊びほうける事もある。最初は両親も心配したものだが、慣れてしまった
のか、最近は何も云われないそうだ。崎川と河原田の二人がいるので安心し
ているようだ。
この三人の付き合いは古く、小学校の頃から七、八年を数えるが、この数
年で皆だいぶ変わったと河原田は思う。自分自身はどう変わったか良く解ら
ないが、昔は同じくらいだった身長も、今は崎川の方が高い。特に気にして
いるようにも見えないが、センスがいいのか服装も似合っている。引き締まっ
た顔に長めの髪が女の娘に人気で、今まで何人の娘に手紙を貰ったか本人も
覚えていないと云っていた。しかし、河原田の知っている限り崎川が誰か一
人の娘と交際していたという話しは聞いていない。崎川はそういった事は全
部河原田に話しているから、それは本当なのだろう。何故か、という事まで
は聞いていないが、それ位は河原田にも想像がつく。
ちら、と千尋を見る。
彼女がいるからだろう。彼女、千尋は誰が見ても魅力溢れる少女であった。
それは河原田が見ても変わらない。彼女は確かに奇麗になった。数年前は背
も低く、よく転んで痣を創っていたものだ。今は似合っているスカートもそ
の当時は殆ど履く事も無く、いつも河原田たちと一緒に走りまわっていた。
親同士の仲が良いせいもあったが、千尋は女の娘といるよりこの二人といる
時間の方が長かっただろう。腰まで伸びた美しい髪はその頃から既に伸ばし
ていた。千尋のお気に入りで自慢の一品でもあった。千尋の中で唯一女性ら
しい部分じゃないかとからかったものだ。
それが・・・・・・
随分変わった。僕はどう変わっただろう?
自問してみた。
河原田は昔からおとなしい少年だった。いつも崎川の後にくっついていた。
三人の中で一番静かで、時間があればなにがしか本を持っていた。だから勉
強はよく出来た。崎川と一緒に居たせいで、河原田の真面目な部分が際立ち、
周りからは優等生と思われていた。
「ね、哲也。お願いがあるんだけどぉ・・・・・・」
顔の前で両手を合わせ、頚を傾げる「お願い」のポーズを取る。千尋が何
を云いたいのか、河原田には大体想像がついていた。千尋の「お願い」は今
に始まった事では無い。
「今日の宿題かい?」
わざとらしい溜め息を吐いて、河原田が尋ねる。千尋はちろっと舌を出し
て片目を瞑ると、
「あれ、解っちゃった? でも、もう終わったんでしょ?」
確かに数学の宿題があったが、河原田は授業中に終わらせていた。それを
千尋は目ざとく見ていたのだ。そして何より、千尋は数学が大の苦手だった。
「流石だな。俺も一口乗せてもらおうか」
崎川が云った。
こうなってはどうしようもない。黙って鞄を探ると、千尋にノートを手渡
した。中を見ると、几帳面な文字で数式が幾つか書かれている。千尋は今日
の宿題が見事に因数分解されているのを確認すると、満足そうに笑みを浮か
べそれを自分の鞄にしまい込んだ。
「明日の朝には返すね」
千尋が浮かべた笑顔は、見慣れている河原田にとっても、どきっとしてし
まう。千尋は大きく手を振りながら帰って行った。
「忙しい奴だ」
「全くだね」
午後三時。この頃になると、太陽の熱い眼差しも多少は楽になる。それに
加え、雲と風が出てきたので随分過ごし易くなっていた。それでも気がつく
とシャツが汗で濡れていた。昼に比べれば確かに涼しくなったが、気温だけ
を見ればまだまだ暑いのだ。路の先に眼をやると、陽炎で視界がぼやけてい
る。頭上を飛行機が通過し、耳障りな音が聴覚を刺激した。
「暑ぅ・・・・・・」
河原田は今日何度呟いたか解らない台詞をまたも口にして、左手首を眺め
る。河原田はディジタル時計よりもアナログ時計の方が好きで、五年前買っ
たアナログ時計を今も付けていた。
時計の針は三時十分を指していた。アナログといっても時間は正確に合わ
せてある。河原田はまだ待ち合わせの場所には着いていなかった。遅れたの
には特に理由がある訳ではなかった。この熱さが河原田の歩速を鈍らせてい
た。
せめてもう少し風があれば・・・・・・そう思ったが、頬を撫でる風は生ぬるく
不快感が増すだけであった。
河原田の視界の先に、陽炎にぼやけながらも目的の場所が映った。そこは
人気の無い建物の傍のバス停である。このバス停を含むこの一角は一昔前、
バブルの頃に建設会社が金にあかせて地上げ同然に買い込んだ土地である。
しかしその後バブルが弾けたため、予定されていた整地も行われず放置さ
れるままになっている。この土地の殆どは住宅地であったが、区画の外れの
方にビルが幾つか建っていた。
二人は美術部に所属している。河原田はともかく、崎川には少し奇異なも
のがある。それは崎川本人も思っているらしく、時として「何故美術部なん
だ?」と漏らす。この美術と云うのは当初河原田が始めたのだが、中学時代
に帰宅部だった崎川が頻繁に部に出入りしていた。そして河原田につきあっ
て暇潰しに絵を描いてみたり、彫刻をしているうちに、半年も経つころには
病みつきになってしまったのだ。
高校に入学すると二人は迷わず美術部に入部した。河原田は絵画、崎川は
彫刻を専門にしていて部活に限らず家に帰ってもやっている。実際、部室で
作業するより家で作業する事の方が多い。
そして今日もそうだった。
二人はこのうち捨てられた街の一角に自分達のアトリエを持っていた。と
云っても正式に賃貸しているわけはなく、廃ビルの一室を勝手に改造してア
トリエにしているのだ。ここは人気も無く、静かで落ち着いて作業をするこ
とが出来る。ふとしたことがきっかけでこの場所を見つけたのだが、既に彼
らの別荘となっていた。電気、上下水道こそ無いものの、飲食料はアイスボッ
クスを使って保存している。といっても缶ジュースや缶詰、カップラーメン
程度の物だからたかが知れているのだが。
二人の他にこの場所を知っているものはいない。学校の友人は勿論、親で
すら知らないのだ・・・・・・一人を除いて。唯一、この事を知っているのは千尋
だけだ。その彼女ですら、アトリエの正確な場所は知らない。
目の前にバス停留所があった。
停留所にある時刻表をこんこん、と叩く。朽ちかけた待ち合い所から崎川
が顔を出した。
「遅いな」
「済まん。この暑さだろ? 勘弁してくれ」
そのままアトリエに向かう。アトリエはビルの四階にある。ここは元々大
きな会社が入っていたのだろうか、大きな部屋に仕切りも無く、他の部屋と
比べて状態が良かった。
四階は思ったより遠く、荷物を持って登る時などは結構疲れる。その度に
もっといい場所を探そうと思うのだが、この部屋ほどいい場所がそうそうあ
るとは思えないし、この広い範囲を探索するのは面倒なものだ。河原田など
はそう思うのだが、崎川はそういう事が好きなのかたまに探索に出掛ける事
がある。
階段を登りきるとアトリエの扉が見える。扉は幸い無事だったのでそのま
ま使っている。ただ鍵が無いので施錠する事は出来ないが、この部屋を訪れ
る人間がそうそういるとは思えなかった。それに、この部屋に盗まれるよう
な物など最初から置いていないのだが。
扉を開けると、中から嗅ぎ慣れた粘土の匂いと油の匂いが洩れる。この匂
いを嗅ぐと二人は落ち着くのだ。
それからの数時間、二人は黙々と作業に専念した。いつもこうである。作
業に集中すると、時間の経過も忘れ言葉も交わさない。放っておけばそれこ
そ何時間でもそうしているだろう。実際それで夜が明けた事も一度や二度で
はなかった。
ぴぴぴぴぴ・・・・・・
作業を開始してから三時間後、部屋に電子音が鳴り響いた。
「崎川、時間」
河原田は腕時計のアラームを止める。
「じゃあ、今日はこれで終わるか」
時計の針は七時をさそうとしていた。
「流石に腹が減ったな。飯にしようや」
云いながら、崎川はもうカップラーメンを探し始めている。河原田はガス
を使って湯を沸かす。
「なあ崎川。今日先生に呼ばれていたよね。進路の事かい?」
二年生に進学すると共に、教師からは頻繁に「進路」の二文字が発せられ
ていた。今日は崎川が教師に呼ばれ、今までその存在すら気がつかなかった
「進路相談室」なる部屋に脚を踏み入れたのだ。
「ああ、大学へ行くかどうか・・・・・・まあはっきり返事をしたわけじゃないけ
どな。大学へ行けなくも無いけど、美術関係の専門学校にも興味があるしな。
と云っても親は反対するだろうがな」
「そうだね。それは僕も同じだろうね。僕の場合は先生が乗り気で、僕を推
薦したがっているけどね。もう僕の意思なんてどうでもいいみたいだ」
簡単な食事を終えると、二人は部屋を出た。外は既に暗くなりかけている。
辺りに人が住んでいる家は無い。静寂に包まれた、うち捨てられた家が寂寥
感を増加させる。
ビルの窓から外を見ていると、その視界に明かりが映った。それは小さな
建物から洩れているようだった。それは民家と云う感じではなく、どちらか
と云えば図書館などのようなしっかりした建物のように見える。それまでこ
の一角に明かりが灯る事など無かった筈なのに・・・・・・
「崎川、あれを」
「ああ・・・・・・誰か居るのか? 俺たちと同じように隠れ家にでも使っている
のだろうな。ここにも人が入り込んで来るのか・・・・・・なかなか『理想郷』な
んて無いもんだ」
「理想郷・・・・・・ね。キリスト教で云えば『エデン』、イスラム教で云えば『
シャンバラ』、仏教だと『涅槃』というところかな?」
「そうだな。でもそれらは決してこの世には無い物だ」
「確かにね。昔の学者が云っていたね。『イデア』はこの世では実現しないっ
て。と云う事はこの世は常に不完全と云う事かな?」
「だからいいんじゃないか。完全な物なんかあったってつまらないだけだ。
もし完全な人間が存在したら、そいつはどう生きれば、何を目標に生きれば
いいんだ? 完全な存在はその瞬間存在する意義を無くすのさ」
「あれ・・・・・・」
河原田が再びその建物に眼を向けると、先程までついていた明かりが消え
ている。
「明かりが・・・・・・」
「・・・・・・消えてるな」
二人はそのまま暫く建物を眺めやっていたが、明かりがつく気配は無い。
そして五分経っても誰も出てこようとはしなかった。
「中で寝ているのか?」
「でも崎川、いくら夏だからって」
「行ってみるか?」
崎川はそう云うと、階段を駆け降りて行った。
「ここか」
二人が立っているのは間違いなく、先程明かりが灯っていた建物だ。ぐる
りと廻ってみたが、正面の入り口以外に出入り口は存在しない。明かりをつ
けて消した何者かは、まだこの中に居るのだろうか。
崎川が耳を澄ませたが物音一つ聞こえてこない。人の話し声はおろか、人
の居る感じは全く無い。
「入ってみるか」
そう云う崎川に河原田は、
「何があるか解らないし、危険だよ!」
不安げに訴えた。
「だからいいんじゃないか。それにここは倒産した企業のもので、今は市が
管理しているんだろ? だったら俺たちが入っても文句を云われる事は無い
ぞ」
「でも・・・・・・」
「いいから」
渋る河原田を無視して中に入る。河原田も渋々ながら後に続いた。
入り口を潜るとすぐに地下に降りる階段がある。二人は足音を立てないよ
う、慎重に脚を運んだ。軽い足音がコンクリートに反響したが、誰も出て来
る様子は無い。
暫く進むと、扉があった。他に路は無い。ここを開けるしかないようだ。
「さっきの光は上の入り口だったようだな。二階どころか一階も無いんだか
らな」
「じゃあ、ここには誰も居ないかもね」
「・・・・・・開けるぞ」
崎川が扉のノブに手を掛ける。ゆっくりと廻すと、軽い音を立てて扉が開
いた。そっと押してみる。中からは光が洩れてこない。やはり誰も居ないの
だろうか。
意を決して扉を全部開ける。部屋は闇に包まれていて、中がどうなってい
るのか伺い知ることは出来なかった。
音を立てないように部屋に入り、河原田が後ろ手に扉を閉めた。
瞬間。
部屋が光に満ちた。
その余りの輝きに二人は眼を覆い、慣れるまでに時間を要した。
「何だこれは!?」
視力が回復した二人が見たものは。
一面輝くばかりの金色の草原。
それがどこまでも続いていた。地下には有り得ないほどの広さ。どこまで
あるのか端が見えない。何処までも続く草原。しかも僅かに風が吹いている。
「ここは・・・・・・?」
後ろを見た河原田は更なる驚愕を覚える。いましがた自分で閉めた筈の扉
が何処にも無い。背後も草原が広がっている。
「崎川、扉が無い」
「・・・・・・何がどうなってるんだ? ここは何処だ?」
叫ぶようにして走る。河原田も後を追う。しかし何処まで走っても壁らし
きものは見つからない。風になびく草花は変わる事が無い。
「崎川、あれを」
河原田の差す方を見ると、そこには大きな木が一本そびえていた。それだ
けがこの世界にある唯一のものであった。近づいてみるとそれは大きな枝を
広げる林檎の木である事が解った。その枝には赤々とした林檎の実がなって
いる。
ここは夏じゃないんだ・・・・・・
ふと河原田は場違いな事を思った。空を見ると太陽が照っている。ここは
夜でも無いらしい。時計を見ると時間は午後八時を廻っている。夢を見てい
るのでは無い事は解る。
「ねぇ崎川、少しここで休もうか?」
「ちっ、何落ち着いてるんだよ河原田・・・・・・まあいいか」
二人は木に寄り掛かるようにして腰を下ろした。その感触は地面そのもの
であった。
「なあ河原田、俺たちの身に何が起きたか解るか?」
「さあ・・・・・・ね。僕たちは明かりの見えた普通の建物の地下室に居る・・・・・・
筈なんだけどね。本当なら」
「しかし実際は、何処まであるのか解らない程広い草原の、見たことの無い
程巨大な林檎の木の下にいる・・・・・・しかも地下だってのに頭上には天井の代
わりに太陽があって、風まで吹いている。何で地下に空があるんだ? 何で
壁が無いんだ? 風は何処から吹いているんだ? この草原は成長している
のか? だったら何処から栄養を? 地面まで本物って云うんじゃないだろ
うな・・・・・・」
全く崎川の云う通りであった。ここは何処なのか? 二人の常識では計り
きれない不可思議な所であった。
「解らない。でも・・・・・・何か気分が良いよね。ここが何処なのかは知らない
けど、居心地がいいよ」
「そうだな。何か気分がいい。これで食う物があったら・・・・・・」
とすっ。
『えっ?』
二人の目の前に林檎の実が二つ落ちてきた。それは赤く熟していて、とて
も美味しそうだ。
「ん〜む、偶然とは恐ろしい・・・・・・が、それを無視する事は無いな。ほら、
お前の分」
一つを河原田に渡すと、軽く服で拭ってから食べる。それは見掛け通りと
ても甘くて美味しかった。それを見て河原田も食べる。二人は林檎を食べ尽
くすと横になって眼を閉じた。涼しげな風のせいなのか、花の香りのせいな
のか、それとも美味しい林檎のせいなのか二人は深い眠りに落ちた。
河原田の眼が開いた。
最初、河原田は自分が何処に居るのか理解出来なかった。頭上には太陽が
あり、花の香りが鼻孔をくすぐり、風が頬を撫でる。それらの総てに記憶があった。
隣を見ると崎川が両腕を枕に寝息を立てている。二人の傍には大きな林檎
の木が生えている。
ああ、そうか・・・・・・
河原田はここが何処で、自分達の身に何が起きたのか、記憶の糸が繋がっ
た。辺りを見回しても、二人が寝てしまう前と変わる所は無い。静謐を感じ
つつ心地好さに身を置いた。
あれからどの位時間が経ったのだろうか。
腕時計を見る。針は既に九時を廻っている。一時間弱寝ていた計算になる。
「崎川、起きてよ」
崎川の躯を揺すると、口内でもごもごと何事か呟きながら目を覚ました。
彼もやはり状況把握に数秒を要したが、すぐさま河原田と同じ反応を示した。
即ち、
「何時だ?」
と聞いたのである。
「もう九時過ぎだよ」
「大分時間が経ったな・・・・・・」
立ち上がり伸びをする。河原田も倣って立ち上がり、伸びをする代わりに
辺りを見回した。辺りは変わらず地平線の果てまで草花に覆われていた。
「さてこれからどうする?」
その口調は昼食は何を食べる、と聞いているかのようにのんびりとしている。
「どうしようか? 差し当たっては出口を探さないとね。いくらここが居心
地が良いからっていつまでもこうしているわけにはいかないし」
答える河原田も危機感とはかけ離れた感じだ。ここにいるのは決して心苦
しい事ではない。ここに居続けるのも悪くは無いと心中二人は考えていた。
とは云っても、それを口にする事はしなかったが。
「ふむ、しかしそれらしい物は見えないな。それにあったとしても、ここか
ら五十キロも離れていたら辿りつく事も出来ないだろうがな」
眼の上に手をかざし、ぐるっと一回転して見る。やはり何も見えない。そ
れに漫画じゃあるまいし、扉だけが空間に存在しているなんてことはありえ
ないのだ。崎川は諦めて再び腰を下ろした。
「この近くにあるものと云ったら、この林檎の木だけ・・・・・・あれ?」
立ち上がって木の周りを廻って見た河原田は、木の幹、二人が腰を下ろし
ていた反対側に扉がついているのを発見した。何の事はない、いままで扉に
寄り掛かっていたのだ。
河原田に呼ばれ崎川も扉を見る。それは木の幹をくり抜いて扉をはめ込ん
だように見えたが、それにしては違和感が無い。まったき自然の産物のよう
にそこに在った。有機物と無機物が見事な調和を見せるそれを、二人は茫然
と眺めている。
「扉を開けて木の中に入れってか?」
「これが多分出口なんだよ。どういう構造なのかは知らないけど・・・・・・ま、
ここにどうやって来たのかも解らないから」
いぶかしむでもなく河原田の手が扉にかかる。ノブに手を掛けたまま崎川
に視線を送る。崎川が肯くのを確認すると、ゆっくりと息をはいて手に力を
込めた・・・・・・
扉が静かに開く。
*
空には既に太陽の残滓も無く、月が屍の光を反射している。温かな太陽の
輝きと違い、月光は冷たい感じがする。実際、照り返された月光には赤外線
が含まれていない為温かくはない。が、それ以上に無表情な月の顔を眺めて
いると、背中がぞくり、とする。
夜の空に於いては、月は無上の存在である。輝く星々も遠慮するようにそ
の存在が霞む。月光の許では時間が止まっているようだ。
「やっと出られたな」
「そうだねぇ」
二人は見覚えのある、そして何も無い廃墟の中に立っていた。
結局、あれは出口であった。扉の向こう側には見慣れた薄汚れた鼠色の壁
がそそり立っていた。振り替えると、そこには扉が在ったが、二人は決して
開けようとはせず何度も背後を省みながら階段を昇って外に出た。
久しぶりに吸う外の空気は冷たかったが、澄んでいて躯が洗われるようで
あった。二人は幾度か深呼吸をすると何事も無かったかのようにその場を後
にした。
彼らは普段そうしている様に、ある十字路で別れそれぞれの家に戻る。家
に入る前に時計を見た河原田は両親に何と云い訳しようかと,頭の中でいく
通りかのシミュレーションをした挙げ句、絵を描いていて時間を忘れていた、
という些かマンガじみた云い訳を完成させていた。
「ただいま」
遠慮がちに声を掛け、居間の扉を開ける。今では母がテレビを見ていた。
「おかえり。食事はまだ? シチュー温めようか」
そう云って台所に立つ。暫く経たない内にレンジに火を着ける音がした。
正直云って拍子抜けだった。てっきり何か云われると思っていたのだ。普
段河原田はこんな遅くに帰宅する事はないし、そう云う時には必ず連絡を入
れている。崎川の場合は、こんな時間に帰るのは日常茶飯事な事なので、親
も既に諦めているらしい、と聞いているから良いのだが。
取り敢えずソファーに身を沈め、テレビに眼を向ける。最近流行のアメリ
カのドラマが流れている。主人公のFBI捜査官が頻りに地球外生物だの、
超常現象だのと云っている。そして同僚の女性捜査官から、化学的見地から
見て有り得る事ではない、と否定されていた。
超常現象・・・・・・科学的見地から見て有り得ない・・・・・・つい今し方まで居た
あの場所は何なんだろう? あれは科学的見地から見て有り得るのだろうか?
果たして超常現象なのか・・・・・・
そんな事を考えていると、再び捜査官の声が聞こえる。
「真実はいつも一つだ・・・・・・」
真実・・・・・・あれは果たして真実だったのだろうか? 夢とも思えない。そ
こまで考えた時、深い思考の底で何か、僅かな閃光が心の端で瞬いたような
気がした。それは些細な事のようであり、重要な事でもあるようだった。
そう・・・・・・
このドラマは午後八時からのはず・・・・・・! 何故今頃やっているのだ!
もやもやした疑問が凝固し、一つの形を成した時それまでの思考を通り越し
て脳の総てを支配した。
腰を浮かせ背後の壁に掛けてある掛け時計を見る。それは八時四十分を指
していた。それを確認すると自分の腕時計を見る。それは確かに十時二十分
を過ぎていた。テレビに眼をやると、そこでは捜査官が銃を構えている。視
線をそこから下げ、ビデオを見るとその時計も八時四十分を指している。
背中がぞくり、とした。するとやはり間違っているのは僕の時計の方なの
か。しかし何時? この時計はアナログだから何かにぶつけて針がずれたの
だろうか? しかし偶然針がずれてしまうと云う事は、果たしてこの場合有
りうるのだろうか・・・・・・考えられるのは気を失っている間に誰かが時間をず
らした、という事だ。その場合は、崎川が犯人と云う事になるのだろうが、
彼がそんな事をするはずが無いし、したところでどんなメリットがあると云うのだ。
河原田の思考は食事をする間も止まる事はなかった。母はやはり何も云わ
なかった。河原田は食事を終えるとそそくさと自室に引き篭り、着替える間
も無くベッドに身を沈めた。
「もしかして・・・・・・」
ある考えが浮かんだ。それは時計の謎も、あの場所の謎も一気に解ける物
であった。
それは・・・・・・
「誰かが僕たちを気絶させて別の場所に運んだんだ」
そう、それならあの不可解な状態の総てに答える事が出来る。
「・・・・・・ダメだ。それでも時間をずらす必要はないし、第一僕たちはあの場
所で実際に時を過ごしたんだから。起きてからも暫くあそこに居たし・・・・・・
あの部屋に行ったのが午後八時少し前、八時半頃寝てしまった。それまでは
時間は合っていて、起きてから三十分位して外に出た。そこから家まで同じ
く三十分。寝ていたのが五分でも九時半・・・・・・計算が合わない。それにあん
な場所が日本に存在しているのか?」
思考が思考の呼び水となり、どんどん深い処へと沈んでいく。次第に意識
が混濁していき・・・・・・心は闇となって・・・・・・
次の日学校に行くと、既に崎川が教室に居た。河原田は昨日考えた事を話
してみた。河原田に起きた事は崎川も感じたらしい。時間の流れが何か、変
だ。色々話し合ってもみたのだが、結局あれが何だったのかは解らないまま
であった。
それも数日の事だけだった。時間が経つにつれ、あれに関する事はだんだ
ん河原田たちの話題にはのぼらなくなっていた。一週間もするころには、そ
んな事はすっかり忘れていた。
それでも、アトリエからあの建物を見るとその事を思い出す。あれ以来、
奇怪な光は見ていない。地下室には数回行ってみたが、恐る恐る扉を開けて
みても、部屋の中は閑散として荒れ放題になっていた。何も無い床に埃が積
もっていて、この部屋に暫く人が入っていないのが解る。
・・・・・・それから一月が経過した。
あれは・・・・・・僕たちの作品が完成しようかという頃だった。いつもの様に
アトリエで作業を終えると、僕たちは家路についた。でもそれが彼を見た最
後になってしまったんだ。
次の日、いつもの様に学校へ行くと、いつも僕より先に来ている筈の彼が
まだ来ていない。彼は真面目では無かったかもしれないが、決して休んだり
する事は無かった。周りがそう思っている様に、彼はやはり頑健で風邪もひ
かない奴だった。寝坊でもしているのだろう、僕はそう思って然程気にも留
めなかった。
それが来たのは、二時限めの半ばであった。数学の老教師が教鞭を振るっ
ていると、担任の先生が乱暴に扉を開けた。木の扉を叩きつける様に入って
きた担任は、老教師に深刻な表情で何事かを耳打ちした。それを聞いた老教
師の表情が豹変したのが遠めでも解った。そして老教師に代わり担任が教壇
に立った。
「え〜、大変残念な事ですが・・・・・・」
担任は誰に視線を定める事無く、刺さるような視線から避ける様に躯を動
かしゆっくりと、
「崎川君が今朝事故に遭い・・・・・・先程病院で亡くなりました」
教室に驚愕の声が響く。僕の斜め前に居る千尋も例外では無い。僕は担任
の云っている事を理解する事が出来ずに、声を出す事も無く超然として、い
や茫然自失となっていた。担任の言葉は理解出来た。でも、僕はそれを認め
なかった。
認めたら・・・・・・「崎川の死」を容認したら・・・・・・信じたら・・・・・・崎川は本
当に死んでしまう・・・・・・
*
それから気がつくと僕はアトリエに居た。そこには僕と崎川の完成間近の
作品が並べられている。時計を見ると、午後四時を廻っている。制服を着た
ままなのに今気がついた。それまでの記憶は無い。果たして何時此処に来た
のだろうか。授業には出席したのだろうか・・・・・・まあ、そんな事はどうでも
良いのだ。大切なのは期限が迫っている作品を完成させなければいけない事
だ。
時間が無い。僕と彼には時間が無いのだ。
早く来て・・・・・・崎川。
*
哲也はどうしたんだろう?
今まで一度も休んだ事の無い哲也が、今日は学校に来ていない。昨日も様
子がおかしかった。伸の訃報を聞いてから、何かに憑かれたように放心して
いた。あたしが声を掛けても返事もしなければ顔を向ける事も無い。
仕方が無い事だけど、あたしだってショックだったし。家に帰ってからひ
としきり涙を流した。でも・・・・・・哲也は伸の通夜にも顔を出していない。電
話したけど、家には帰っていなかった。それから一日経っても哲也とは音信
不通のままだ。
昨夜遅く、伸の通夜が終わって暫く経った夜十一時に哲也の親から電話が
あった。哲也がまだ帰っていない。そしてやっぱり今日も学校には来ていな
い。何処に行ったのだろう? 伸の死が哲也にどんな影響を与えたんだろうか?
まさか・・・・・・いや、哲也はそんなに心の弱い人間では無い筈だった。でも
哲也と伸は一心同体という言葉が似合っていた。何時も行動を共にしていた
し、お互いに無いものを補いあっていた。
哲也は知識が豊富で、頭脳も明晰だった。あたしがいつも頼りにしている人。
哲也・・・・・・何処?
*
「後二、三日で完成だね」
「ああそうだな。長かったよ。何とか締め切りには間に合いそうだ」
「少し休憩を取ろうか」
「いいな。腹も減ってきたしな」
「林檎でも食べようか。沢山あるし。それに時間だって一杯あるんだ。何も
急ぐ事は無いよ。急いては事を仕損じる、ってね」
「そうだな、のんびりやるか」
*
そう云えば、哲也はいつも伸と一緒に秘密のアトリエに行っていると云っ
ていた。詳しい場所は教えてくれなかったけど、多分街外れの区画整理が止
まったままの場所。話し振りからするとその辺りらしかったが、あそこは結
構広い。探せるだろうか・・・・・・
でも探すしかない。哲也の母親は三日くらい様子を見ると云っていたが、
それにしても時間が無い。
・・・・・・行ってみよう。
*
ここは楽園だ。ここでは僕がしたい事をしたいだけする事が出来る。勿論
したくない事はしなくていい。そして時間の束縛を受ける事も無い。僕が望
んだ事は必ず叶うし、何より辛いことがない。
・・・・・・悲哀
・・・・・・煩悶
・・・・・・苦悩
・・・・・・病
・・・・・・老
・・・・・・別離
・・・・・・死
馬鹿らしい。何故人はそんな事に対面しなければならないのだ? 避ける
事が出来ないからだ。もし避け得るなら・・・・・・
人生から楽しい事だけを拾い集めて繋げたいのだ。人生から嫌な事を削除
して、そして続く永遠の「楽」。それを連鎖させ無限の楽しみを享受したいのだ。
でも、人は他人の幸せは嫌いだ。だから邪魔をする。親切なんて上辺だけ
じゃないか。所詮脚を引っ張る機会を伺っているだけだ。邪魔な人間の居な
い世界、完全な「輪」の世界、完璧な「個」の世界。それがこの場所だ。
他人なんて・・・・・・いらない。「僕」と「他人」では無く「僕」と「僕の為
の人」が居れば良いんだ。
他人なんて・・・・・・
*
多分この辺だと思うんだけど。
「この辺」とは何処から何処まで? それは私にもあたしにも解らない。
見渡す限り、古びた建物、うち捨てられた鉄骨があるばかり。たとえ哲也が
居たとしても見つけようが無いじゃないの!
「もぅ!」
苛ついて足許の石を蹴る。それは乾いた音を立てながらひびの入ったコン
クリートの壁に当たり、跳ね返る。無人の、人工の渓谷とも云える建物の合
間を何度も反響しながら消えて行く。
「哲也ぁ〜!」
何度目だろうか、あたしの声も先程の石と同じ路を辿る。それに答える音
は無い。時間だけが無駄に消費されていく。額を伝う汗を拭いながら、あた
しの不安は増すばかり。心が、躯が重くなっていく。
何時間経ったのだろうか・・・・・・あたしはぐるぐると辺りを歩き続けていた。
何も無い廃墟は何処を見ても同じに見える。この路は通ったことがあっただ
ろうか? あったような気がする。でも・・・・・・
もう空が闇色のビロードに包まれ、躯が云う事を聞かなくなってきたころ、
眼前にビルが見えた。その前を通り過ぎようとして、何となく脚を止めた。
何かあった訳ではない。今まで見て来たビルと何ら変わる処は無い。
でも、何かが気になった。
暫く脚を止めてビルを眺めていた。そして背を向けた時、暗く染まってい
た視界の端が僅かに輝いた。ビルの入り口付近の様だ。
誰かがいる?
でも、振り向いた先には誰も居ない。そして光も消えていた。
入り口を覗くと、すぐに階段が続いていて、それは地下に潜っている。そ
の先は暗くて解らない。一体何処まで続いているのだろう・・・・・・それはまる
で地の底まで続いているような錯覚を覚える。
「あれ・・・・・・」
コンクリートに厚く積もった埃に、真新しい足跡を見つけた。こんな処に
人が出入りしているのだろうか。
もしかしたら・・・・・・
あたしは意を決して階段に脚を掛ける。
かつん、と乾いた音がやけに大きく聞こえる。それは独特の響きを持って
あたしを先導する様に先に向かって進んで・・・・・・そして、段々小さくなって、
細かく別れて・・・・・・消えた。
扉があった。
あたしは、冷たい、ノブに、手を掛け、それを、ゆっくりと、廻した。
「やあ、千尋。やっぱり此処に来たんだね。もうそろそろ来ると思っていた
よ。丁度良かった。後少しで僕と崎川の作品が出来上がるんだ。前から見た
がってたよね? だから後で見せてあげるよ」
哲也は云った。でも、何を云っているの?
「ね、哲也。今までココにいたの? それよりココは何処? ココ、ビルの
地下だよね? 何で草原があるの? それに伸の作品って・・・・・・」
あたしは今、何処だか解らない草原の上に立っていた。風が心地良い。哲
也は大きな林檎の樹の前にキャンバスを立て、筆を走らせている。
「ははは、驚いただろう? 僕たちも最初驚いたよ。で、結局僕たちはこう
考えることにしたんだ。『此処はココじゃないか』ってね」
「でも・・・・・・」
「それまで、ゆっくりしていなよ。大丈夫、此処には時間が無いんだ。いつ
まで経っても『今』なんだ。嫌な『過去』も不安な『未来』も此処には存在
しないんだよ。なあ崎川」
え・・・・・・?
「そうだな。『今』が一番楽しいからな」
つい最近まで毎日聞いていた、今は懐かしい声が樹の陰から聞こえて来る。
声だけじゃない。その今は見る事の出来ない姿が現れた。
「伸・・・・・・伸が、どうして、此処に!? だって事故で、葬式も済ませたし、
あたしも一緒に・・・・・・」
樹の陰から現れた伸は確かに本物だった。偽者だと思い、いや、偽者でな
ければならないのに、それは確かな質感と気配を持っていた。懐かしい、伸
の気配がした。
「それは『外』の話だよ。此処では、此処で起こる総ての事象は僕の意思
一つでどうにでもなるんだよ。だから・・・・・・だから僕は崎川の『死』は認め
ない。伸は此処でずっと僕と一緒に生きていくんだ。崎川は此処でなら僕と
永遠に存在する事が出来るんだ」
何を、哲也・・・・・・あなたは何を云っているの?
「そうだ! 千尋、こんな話しを知っているかい? 量子力学における不確
定性原理というものだけど・・・・・・量子という小さい物を観測しようとすると、
位置を調べれば運動量が、運動量を調べれば位置が確定しないんだ。まあ、
解り易く云えば、そう、匣の中にお菓子を入れる。そして蓋を閉める。中に
は何が入っていると思う?」
「お菓子でしょう」
そんな事を話している場合じゃないのに、あたしは思わず答えていた。あ
たしも何かに魅入られているのだろうか。
「そう。でもそれは匣を開けた時初めて解るんだ。匣を開けるまでは、中が
どうなっているのかは解らないんだ。もしかしたら粘土かも知れない。もし
かしたら骨かも知れない・・・・・・つまり観測者が観測した時点で初めて現実化
するということなんだ。だから目に見えない誰にも観測されない場所は実は
どうなっているのかは誰も知らない。無人のエレベーターは誰かがその扉を
開けた時点でその形を得る事が出来るんだ。そして此処は、観測者の願望を
そのまま形にしてくれる場所なんだ。だから僕は、僕という観測者は崎川の
死を観測しない。僕たちの永遠の現在を観測したのさ!」
余りに非現実的な話しだった。でも、伸がこうして存在すると云う事が、
哲也の言葉を裏付けているんじゃ・・・・・・いや、そんな話が・・・・・・
「信じてない!? 信じられないだろうね! でもこれは事実なんだよ。こ
こは僕と崎川の『エデン』であり『イデア』なんだ! だから誰にも邪魔は
させないよ」
その眼はもうあたしを見ては居なかった。尋常じゃない。それから哲也は
大声で笑いだした。今まで聞いた事の無いほどの声量で、今まで見た事の無
い表情で、それは狂気なのだろうか、それとも愉悦なのだろうか、もうあた
しには解らない。
「はは、ははははははははは!! はーははっははっはははは! ふ、あは
あははははははっはっははははああ・・・・・・・・・・・・」
あれから半年が過ぎた。あたしが体験した不可思議な世界は二度とあたし
の前に姿を表す事はなかった。哲也は両親が捜索願いを届け出てからも、何
の音沙汰も無い。打ち捨てられた街には市の復興計画が持ち上がっている。
年内には大きなマンションが立ち並ぶ事だろう。あれから一度だけあそこに
行って見た事が有る。でもあのビルの地下は何も無い薄汚れた部屋だった。
草原も無ければ林檎の樹も無い。勿論、哲也と伸も居ない。もう区画整理が
進んでいるから、あの廃ビルは撤去されているだろう。
結局、あれは何だったのか? 哲也の云ったとおりなのか? それともあ
たしの幻覚だったのだろうか。もう確かめる術は無い。哲也は今何処でどう
過ごしているのだろうか?
玄関でチャイムが鳴り、扉を開けると宅配便が届いた。それは長方形の薄
い物だった。あたし宛だったので、リビングに戻り包みを開ける。差出人の
名を見ると・・・・・・
「哲也!」
そこにはしっかりと河原田哲也の名が刻まれている。日付は一昨日。哲也
は無事だったのか。安堵の息を吐き、送られて来た物を改めて見る。それは
一枚の絵だった。大きさは三十号程だろうか。
それに描かれていたのは・・・・・・
草原だった。草原には大きな林檎の樹が生えている。その根元で哲也と伸、
そして・・・・・・あたしが笑いながら並んでいる。とても楽しそうだ。とても幸
せそうだ。
どうやら哲也のいる世界にはあたしもいるらしい。そのあたしはとても楽
しげな笑みを浮かべている。
あたしが今まで浮かべた事の無いような・・・・・・
- 了 -
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