もう20年以上も昔になるだろうか。
現在私が住んでいる場所の、目と鼻の先に当時住んでいた家がまだある。
そして思い出すのだ。
まだ小学校に入学したばかりの私は、当時としてはかなり珍しい犬を飼っていた。
犬種はダックスフンド。その当時は今と違って、ロングだスムースだ、ミニチュアだスタンダードだ、
などと多種多様では無くせいぜい茶色か黒色かの差でしかなかった。
私が飼っていたのは茶色のスタンダードのスムース。当時の流行はポメラニアンやマルチーズと
いった小型犬の長毛種だったように思う。どこからダックスの事を知ったのかは解らないが、
我が家はわざわざ札幌まで出向いて購入した記憶がある。
その姿は一種異様であった。今でこそダックスやウェルシュコーギィはメジャな犬種であるが
当時はそのユーモラスな姿を他に見る事は無かった。初めて飼った犬だったせいか、私たちは
可愛がるばかりで躾をしっかりする事が出来なかった。人間とさして変わらぬ食事を与え続ければ、
丸々と肥え太るのは当然の事だった。ダックスやコーギィといった犬種にとって肥満が他種のそれと
比べかなり重要な問題であった事を知るのは、それからかなりの年月を経てからだ。
小学校低学年であった私は、ビッキーと名付けられた犬を可愛がっていた。だが、所詮子供の事、
遊ぶのは良かったが、散歩や食事の世話などはやろうとはしなかった。それでも父と交代で
散歩に行ったりもしたが、200メートルも歩くとすぐに戻ってきてしまう。また、トイレを終えるとさっさと
帰宅し、トイレを急かしたりもしていた。今でこそ散歩に行くときは、ちゃんとコースを巡回する
のに、あの時はどうしてそうしてやれなかったんだろう。
ある日、父が散歩に出かけいつもの時間よりかなり早く帰宅した。父の腕にはぐったりと
横たわったビッキーの姿が。こんな事は今までになく、しかもビッキーは起きあがろうとしない。
呆然とする私は、父の背後に見知らぬ男性が立っているのに気が付いた。
父は云った。
道路沿いに歩いていると、突然ビッキーが車道に飛び出したんだ、と。そして車にはねられた。
その男性は運転手だと云う。彼は狼狽しながらひたすら謝罪を繰り返していたようだ。私には
彼が何を云っているのか、良く解らなかった。
母が泣いた。
私はやっと理解した。
ビッキーは死んだんだ、と。
だけど何故か泪は出なかった。今思うに、私は物心ついた時から哀しみの泪を流した事は無かった。
それから時が流れ、祖父が事故で死んだときも。やはり私には人間として何か重要な歯車が
欠けているのだろうか。
母が泪した事で、私は今が泣くときなのだと理解し、泣いてみた。泪が出た、ような気がする。
でもそれは本心では無かったのだろう。私は思いだしていた。ビッキーとの思い出を。
標準体重をオーバーしているのにドッグショーに参加して記念品を貰った事。いっちょまえに、
会場をぐるぐると廻っていたっけ。その時の写真が未だに実家に飾ってある。
車で遠方に出かけ、悪戯心にビッキーを車外に放置したまま車をゆっくり動かしてみた事。
ビッキーは必死になって追いかけて来たっけ。
ある日ビッキーが居なくなって、家族全員で1日かけて探し回り、結局はサイドボードの隙間に
挟まるようにして寝ていた事。
どれもこれもが懐かしく、でもほんの数時間前はそれが日常だった。
もうビッキーは居ないんだ。
どうして、もっと大事に。
何故ちゃんと散歩してあげられなかったんだろう。
もしかしたら私がちゃんと散歩させなかったせいでストレスが溜まっていたのだろうか。
それから時が経ち、何度か犬を飼ったけど、全部ダックスだった。でもやっぱりそれはビッキーじゃなくて、
とても可愛かったけど、どうも馴染めなかった。そして暫くして犬を飼う事を、辞めた。それから何年
経っただろうか。ある日犬を飼う事になった。その時はもうダックスが流行になっていて珍しいものじゃ
無かったけど、飼ったのはシーズーだった。もう10年以上前の事だ。そして数年後、再び珍しいもの
好きの虫が疼いたのか、日本に100頭ほどしか居ないヨーロピアン・キングチャールズ・スパニエルを
飼う事になった。しかも当初飼う予定だった犬が生まれてすぐに兄弟によって片目を奪われてしまい、
売れないとの事だったので、別の兄弟と一緒に貰ってきた。
・・・・・・そして時は流れ、現在へと。
私は週に1度は実家に貌を出す。
扉を開けると、老犬となったシーズーと、大人になっても落ち着かないスパニエルの兄弟犬が我先に
私に抱きついてくる。
私は彼らを順番に撫で回しながら、決まってこう云うのだ。
「だたいま。元気だったか、お前たち!」
そして私はサイドボードの中心にある、
古くさいフォトスタンドに眼を向ける。
それはドックショーの時の写真と、
幼い私と一緒に映っている、
元気なビッキーの姿が。
とても可愛く笑って、
今も私のそばに、
ビッキーは居る。
- 了 -
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